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下西風澄さん

 哲学者の下西風澄さんのツィートを読んで、とてもしっくりきたので、ここで共有したいと思います。

 <blockquote class="twitter-tweet"><p lang="ja" dir="ltr">教養というのは、知識がその本質ではなく、歴史や理論体系によって矮小な自己が否定される経験。生まれ持った感覚や、育った環境による慣習や常識、そういう生来の感覚が否定されて自己が変容していく過程こそ教養の本質なので、自分の感覚を強化するための知識は教養とは逆行する。</p>&mdash; 下西 風澄 (@kazeto) <a href="https://twitter.com/kazeto/status/1359396954434793473?ref_src=twsrc%5Etfw">February 10, 2021</a></blockquote> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

<blockquote class="twitter-tweet"><p lang="ja" dir="ltr">だから教養というのは、知的能力よりもむしろ、そういう自己変容に耐えられる、精神の強さや心のゆとりに大いにに関係する。これはリベラルと保守の関係を考える上でも重要で、自己の信念を強化してくれる陰謀論は知的能力より感情や自我の未成熟の問題であって、知的に反論しても意味がない。</p>&mdash; 下西 風澄 (@kazeto) <a href="https://twitter.com/kazeto/status/1359397241476141062?ref_src=twsrc%5Etfw">February 10, 2021</a></blockquote> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

<blockquote class="twitter-tweet"><p lang="ja" dir="ltr">教養はその意味で自己肯定感を前提として成立する。自己肯定感がない状態で知識に触れると、とても自己否定する知には耐えられず、自己を肯定してくれる知識に吸い込まれる。「階級」や「分断」はこうした精神と環境から生まれるのであって、知的能力や経済力だけを基準にしては捉えられない。</p>&mdash; 下西 風澄 (@kazeto) <a href="https://twitter.com/kazeto/status/1359425020305416194?ref_src=twsrc%5Etfw">February 10, 2021</a></blockquote> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

 

 多分、この教養という言葉が、図書館では欠かせない視点なのだと思いました。

 利用者主体の本質は自己変容に耐えられる成熟性が含まれている気がしますし、それを目指していることが前提になっている気がします。

 漠然とわかっていることを、言葉にしてもらってすっきりした気持ちです。

 

ツィッター の引用が著作権に引っかかるのだろうかと書いてから心配になりました。ツィッター の機能を使っての引用は著作権に引っかからないという情報を得たので、こんな感じになりました。ツィッター の画面が引用できると思ったのですが、私の能力ではこんな埋め込みになりました。