2021年9月

2021年9月 · 2021/09/30
 私はありがたいことに海外作家の絵本や児童文学が次々と翻訳出版された時代に子ども時代を過ごしました。そのため日本という国に暮らしているという自覚が育つ前に日本の作品か海外の作品かの区別なく物語と出会い親しんできました。そして絵本や児童文学で語られることは物語の中のこととして捉えていたので日本と外国の生活を比べるような視点がなく生活習慣や文化の違いに注目することはなかったように思います。そして物語に書いてあることに対して自分以外の感覚や知識を受け取ることなく物語を自分の力で自分の中に取り込んで自分の中で楽しんだので現実世界が物語の中に入り込むことはありませんでした。思い返してみるとパソコンが家庭に普及する以前に育ったので今ほど情報量がなく、田舎暮らしで外国の人を見かけることもなかったこともあり外国を意識する生活ではなかったと思います。  親しんだ物語が日本語でない言語で書かれていて日本語に翻訳されていることに興味を持ち、それをはっきり認識したのは中学生になってからです。当時英語が教科として始まるのが中学1年生からでしたが私は生意気なことに教えられる内容に興味が持てませんでした。読書することで日本語の構造を感覚的に身につけていた私は性に合わないと感じたのです。日本語も授業で教えられた通りきちんと文法で構造を把握していればその対比で英語の授業に興味が持てたのだろうと今は理解できますが当時はわかりませんでした。そんな中同級生が英語の授業が楽しくなる方法として自分の興味のあるものから入るといいと教えてくれました。その友人はビートルズなどの英語の歌が好きで歌詞の意味が知りたいという気持ちが英語を学ぶ意欲になっているからというのです。  そこで私の場合好きな絵本だったら興味が持てるだろうと作家の使っている言語に注目して見直してみることにしました。とてもいいアイディアだと思ったのですが最初に手にしたのが『ちいさなうさこちゃん』だったことで結局英語に役立っていくということにはなりませんでした。なぜ『ちいさなうさこちゃん』だったのかといえば幼い頃初めて買ってもらった絵本が『ちいさなうさこちゃん』だったという記憶があったからです。けれど『ちいさなうさこちゃん』はオランダのディック・ブルーナーの作品だったので元は英語ではないのだということの方に驚いてしまいました。それでも英語版から翻訳されているということを知り英語版を手に入れたのですがさらに一番驚いたのが名前だったので文章まで興味が続きませんでした。今でこそ「ミッフィー(Miffy)」という名前が広く知られていますが当時うさこちゃんが「Miffy」と書かれていることに違和感しかありませんでした。またお父さんお母さんを「ふわふわさん」と「ふわおくさん」と表現する言い回しが子どもの頃とても好きだったのが「Mr Rabbit」「Mrs Rabbit」と書かれていて英語に興味を持つどころか日本語の素晴らしさを実感することにしかなりませんでした。
2021年9月 · 2021/09/29
 『小さなスプーンおばさん』アルフ・プリョイセン/作 ビョーン・ベルイ/絵 大塚...

2021年9月 · 2021/09/28
 読書について考えるとき、本を読むことを個人がどう捉えるかが切り離せないと感じています。読書の捉え方は年齢が上がるにつれて変化していき、おとなと子どもでは読書することに対する感覚が違うと思うのです。けれどその変化に気が付かずに読書について語ったり、子どもたちに読書を勧めたりするのでうまく伝わらないのだと思います。感覚の違いを考慮せずに読書すること自体を奨励すると子どもたちに届かないのだと考えています。  本を自分で読み始めた子どもたちにとって読書することが自分にとってどういうものかということまで感じる程、本を読んでいません。読書は楽しいと伝えても読書をして楽しいと感じる経験が少なすぎると共感できません。読む経験を積むことでしか読書が自分にとってどういうものかを判断することができないと思います。おもしろくなければ読まないし読まなければおもしろいものと思えないというまるで卵が先かにわとりが先かのような問題です。だからこそ自分で読み始めた子どもたちに本を選ぶ手助けが必要だと考えています。子どもたちが自分で本を選ぶには読んだ経験がなさすぎて手がかりがないことをおとなは意識する必要があると思います。挿絵で本を選ぶということも読み始めの段階で自分で選ぶことを推奨された結果、自分で本を見分けるための判断材料として挿絵を手がかりとしたことが習慣になったためだと思います。そして司書は利用者主体の訓練を受けているので子ども自身が選ぶことが重要だと考え、自分で本を手にしている子どもたちにサポートが必要だと思えないのかもしれません。けれどこの読み始めの時期の過ごし方がその後の子どもたちの読書生活を左右します。日本では図書館員は司書という資格があるだけで児童図書館員という専門分野がありません。子どもの読書はおとなと同じではないからこそアメリカなどでは専門分野として確立しています。そのため私たちには系統立てた学びの場は用意されていませんが、それでも知恵を出し合って子どもたちの読書をサポートしていきたいと考えています。
2021年9月 · 2021/09/27
 集団行動が苦手で黙っていられない子などは、まだ「自分」という感覚が形作られていないのではないかと思います。集団行動が苦手で落ち着かないというハンディキャップもあり診断が付いている子どもたちもいるので一概には言えないとは思いますが、グレーゾーンと言われる子どもたちが存在することを考えるとこの考え方で接した方がいい場合もあるのではないかと考えています。黙っていられない子どもたちは次々と言葉を繰り出すことで自分を作ろうとしているのではないかと感じることがあるからです。ただこれは非常にデリケートな問題だとも思います。おとなとのやりとりが足りないから「自分」という感覚ができていないと断じるとハンディキャップのある子どもたちを育て方の問題として追い込んでしまうこともあり慎重な対応が必要です。けれど何が悪かったのかではなく、その子にとって何が足りないのかという視点で考えると子どもたちのサポートとなる関わり方が見えてくる可能性があります。  学校は集団生活ができることが前提で計画運営されています。ですからこういった集団に入る準備が整っていない子どもたちに対するサポートを得意とする場所ではないと感じています。そのため集団行動が苦手な子が増えると学級単位で動くこと自体が難しい状況になっていると感じています。けれど集団でしか学べないことというのはたくさんあり学校教育はそれを担っているのだと感じています。集団生活によって引き起こされる問題というのもありそのマイナス面が目立つと集団で学ぶこと自体が否定されることもありますが集団で学ぶことはデメリットよりメリットの方が大きいと感じています。個人は尊重されますが人間は群れで暮らす生き物です。急に群れで暮らせるわけではなく時間をかけて自分が群れの一員であることを緩やかに体得していく時間が必要です。この緩やかが大事で短期間で集団を作ろうとすると新兵訓練のようになり本来の群れの姿とはかけ離れたものになってしまうと思います。そういった意味で学校教育が果たしてきた役割は大きいと感じています。加えて思春期は同世代からの情報でないと受け付けないことがあります。群れの中の居場所が作れていないと思春期になって庇護してくれていた親から離れる段階に来た時孤立してしまいます。ですから集団行動が苦手な子どもたちへの関わり方を考えていかなければならないと思っています。

2021年9月 · 2021/09/26
 幼児はやろうとしたことがうまくできないと、じれて癇癪を起こすことがあります。癇癪だけ見たら褒められたことではないですが、じれていること自体は悪いことではないと感じます。そこに「自分はできる」という強い意志があるからです。たとえ根拠がなくともこの「自分はできる」という感覚は子どもが育っていく上でとても重要だと考えています。「自分はできる」ということと近い感じの言葉に「自己肯定感」があり、最近「自己肯定感」を育てなければと考える人が増えてきたように思います。そして「自己肯定感」はありのままの子どもを認め子どもの行動を褒めることで育つといった印象を持たれているように思います。けれど「自分はできる」という感覚はそれだけでは持てない気がします。  乳幼児期の子どもにとっておとなの気を引き注目してもらうことが生きていく上で欠かせないことです。人間はおとなの庇護なしでは生きられない状態で生まれるからです。必要なのは褒めることではなく子どもの行動に集中することです。四六時中注目しているということではなく子どもの呼びかけに応えていくというなんの変哲もないことが必要なのだと思います。生活している中での子どもの「みてみて」とか「あのね」に応えることの積み重ねが「自分はできる」につながっていくのだと感じています。生活していく中で呼びかけに応えてもらえることが当たり前と思えてはじめて自分という概念が生まれるのだと考えています。そのため乳幼児期の子どもを一度に相手にできるのは3人ぐらいまでではないかと思います。そして集団に入って行動できるのはおとなに注目してもらって自分という概念ができ自分はできると思えるようになってからなのだと考えています。ですから集団生活で問題行動を起こしている子どもたちはある意味成長しようともがいているのだと思います。集団で活動することだけ考えると他の子の邪魔をしていると判断されますが、時間と場所を選んでその子の周りにいる大人がその子の呼びかけに応えることを心がけるしかないのだと思います。
2021年9月 · 2021/09/25
 図書館に何を求めるのかというのは、利用者だけでなく運営側にも問われている点です。けれど運営側は利用者の図書館に対する評価と図書館法や文科省が提示している基準、あるべき姿を提言している日本図書館協会などの指針との間で揺れ動いていることが多いと感じています。...

2021年9月 · 2021/09/24
 図書館協議会で図書館の仕事は経験値が物をいうので、有能な図書館員を必要とするなら継続して働ける制度にするべきだという意見を出したことがあります。その際別の委員から仕事は職種に限らず全てそう言うもので図書館だけ特別扱いするのはおかしいと厳しい反論に遭いました。私の説明が不十分だったこともあり、何をそんな青臭いことをといった強い論調に論破され悔しい思いをしました。何が問題だったのかその当時は整理できていませんでしたが今思うと論点を統一することができていなかったからだと思います。  議論することのメリットはお互いの考えを比較して考えを深めることであって論破することが重要なわけではありません。論点を統一することでお互いの視点が明確になり、意見をやりとりすることで問題点が浮かび上がってきます。そして議論するにあたって議論の立ち位置を明確にすることも重要です。行政の会議は公平性を保つために広く様々な立場の人に参加してもらい社会の実情に合わせようとする工夫がされています。例えば公募の委員を入れるというのもその姿勢の一端です。けれど選出母体の考え方や個人の価値観を会議の場でどう反映していくかはあまり意識されることがないと感じています。自分の意見は意見として会議の場で発言することに比重がいくと価値観の違いからそれぞれの主張は平行線を辿ることになり議論になりません。議論すべきことは何かを意識できるような配慮が主催者側にも会議の参加者にも求められると感じています。例えば最初にあげた図書館員の話なら、上田市の図書館が職員に専門性を求めるのかどうかを明らかにしてもらわないと議論になりません。専門性の実現のための意見と専門性に重きを置かない意見をぶつけること自体が議論の場としては不十分なのだと思います。平行線をたどる話し合いの場が多すぎて価値観が違えば話し合っても分かり合えないと諦めの境地に至ることはとても危険です。多様性を認める方向で社会が動いている以上、議論する際に何を解決しようとして話し合っているのかを意識することが非常に重要なのだと思います。そこさえ整理できれば議論することで解決することがもっと増えます。話し合って解決できないと思い込んで価値観を統一したほうがいいと思わされないようにしたいと考えています。
2021年9月 · 2021/09/23
 私は読み聞かせの講座を頼まれることが多いのですが、受講者の皆さんに必ず伺うことがあります。それは「なんのために読み聞かせをするのか」なのですが、この質問に戸惑われる方が多く逆になんでこんなことを聞かれるのか不満に思われる方もいらっしゃいます。なんのためにと考えることは読み聞かせをする目的を自覚する効果があります。漠然といいことだと感じるからで留まらずに自分の目的を整理することが大事なのだと考えています。  これは図書館を考えるときにも有効な視点です。図書館の機能は利用者の求めに応じることやハンディキャップ等困難を抱えている人を含め様々な利用者に対応できることなど利用者の利便性を高めることで構築されてきました。図書館の機能は「いいこと」で必要なことだらけなのです。そのため「いいこと」だからという理由で作業をしていてはその仕事量に対応できません。図書館の仕事は天井知らずでどれだけ時間と労力を注いでもキリがないものだという側面があります。そして雇用の関係でやることや時間が区切らられていくので個々が目的意識を持つ必要がないと思われているかもしれません。けれど図書館の様な利用者と共にあることで成り立つ施設は個々の目的意識も必要だと考えています。  まずは「なんのために図書館に関わるのか」と考えることで図書館に関わる自分自身の目的が整理できます。あれもこれもとやらなければならないことを挙げていくのではなく、どうしたいのかをシンプルに考えてみてください。すると図書館に関わる際に自分が譲れないことや守りたいことが見えてくると思います。そして自分がやりたいことがはっきりしたら、その目的が活きる様な仕事の仕方を考えてください。それぞれ立場があり、やりたい形で業務にあたるには制限がかかることも多いと思います。けれどそういった制限が目的を達成するための足かせにはならないと考えています。自分に任されていることで目的をどう達成していくのか考えることが大事なのだと思います。華々しい成果や即効性が期待できなくても目的を明確にして自分の仕事をこなしていくことは図書館が存続していくことに必要で息長く小さな力が集まって支える感じは図書館らしいと思います。

2021年9月 · 2021/09/22
 小学生は時間割の中で図書館の時間が週一回確保されています。移動教室のようにクラス単位で図書館へ行って本を選んだり読書する時間として活用されます。授業時間に組み込まれていることで図書館を利用することや読書することが習慣化する効果が期待できると感じています。クラス単位で活動するので図書館の時間に本が選べないといつまでも書架を巡っていることになり目立ちます。そこで選べない子にどう対応するかというのは学校司書の悩みでもあります。  本が選べない理由はざっくり分けて2つだと考えています。ひとつめは読書の楽しみ方を知らない場合です。言い方を変えると本と物語を楽しむことが一致していないためでしょうか。自分で本を読むにはある程度の忍耐力が必要です。それでも読みたいという意欲を持つことがその忍耐力を支えます。本を読むと楽しいという感覚があってこそ本を読もうと思え本を選ぶことができるのだと思います。本が楽しいことを伝える手段として読み聞かせが広く取り入れられていますがそのためには読んでもらう回数と短期集中ではない長い時間が必要です。暗記するほど繰り返し読んでもらったり毎日読んでもらうのが絵本の本来の姿だと考えています。今小学校で取り入れられている読み聞かせは繰り返し読んでもらった経験の先に成り立つタイプの読み聞かせだと感じています。たっぷり読んでもらった体験がない子どもたちにとって本のおもしろさというよりは読んでもらっておもしろかったという経験にしかなっていないのではないかと考えています。  ふたつめはこだわりが強い場合です。本に限らずに興味の対象となるものがピンポイントなタイプの子に多く見受けられます。そのためその子の興味対象を扱った本が図書館の蔵書にあれば対応できますが、ない場合に勧める本がないという状況に追い込まれます。けれど注意深く観察するとその子の興味対象を扱った本であっても読書に没頭するかといえばそうでもない場合が多いと感じています。興味対象がピンポイントの場合その子の知りたいことだけが詰まった本という形になりにくいこともあり、どう読んでいいのかに戸惑っている様子を目にします。そのためやはり読書の楽しみ方を知らないというひとつめにあげた理由と同じところにも問題があるのだと考えています。  そのため集団で活動する学校という場でしかできない方法でこの読書の楽しみ方を伝えていくことを考えることが解決策につながると思います。家庭でたっぷり読み聞かせを聞いて育つことが理想だとしてもその環境に恵まれなかった子どもたちが読書の楽しみを知ることができないわけではありません。アプローチの仕方は一つではないと思います。その年齢だからこそ、また学校という集団で活動する場だからこそできる代替えの方法があるはずだと考えています。「本はともだち」事業も自分で読む楽しみを伝えるという読書の楽しみ方を学ぶ機会のひとつです。子どもたちが読書をする場に立ち会うおとながそれぞれの立場で工夫を凝らすことが大事だと考えています。小学生という伸び代がたっぷりある世代に読書の楽しみを伝えることは未来への希望につながるとても楽しいことだと思っています。
2021年9月 · 2021/09/21
 読み始めの子どもたちに紹介する本を選ぶ時に注意していることは、子どもたちが物語の展開に興味が持てるのかということです。読書を考える時におとなはどうしても物語の持つメッセージに注意が行きがちです。それはおとなは読むこと自体に不自由がなくエネルギーを必要としないからだと考えています。一方読み始めの子どもたちは、読むこと自体にエネルギーを必要とします。活字を追い内容を受け取っていくことが自在にできるわけではないのです。そこで読み進めることを促進するための材料として物語の展開が重要になると考えています。  物語の展開で一般の本より子どもの本が軽んじられる時に「子どもだまし」という言い方がされることがあります。物語の展開がご都合主義でなんの伏線もなく魔法などが多用され、おとなが読むと突っ込みどころが満載だという意味で使われていると思います。けれどこれは子どもの本に限らず一定程度ご都合主義が容認される物語への需要があると感じています。何も考えずに読めますしストレス発散にもなるので、このタイプの本を読んだ経験はおとなにもあると思います。ただこういったご都合主義の物語を読んでも長い目で見ると子どもたちが読み進めることを身につけるための力にはならないと考えています。こういった本を読んではいけないということではなく、こういった本はどちらかというと読み進めることが苦もなくできるようになってからの選択肢の一つだと考えています。  ここで問題になるのは、どれがご都合主義の物語でどれが違うのかという見極めです。読み慣れていないと昔話などもご都合主義と一括りにされることがあるのです。昔話のような伝承のものは物語の展開に必要なことしか語られません。一見ご都合主義に見えるような展開もその場面ではこの選択しかないという必要に迫られたことだというのは昔話を読み慣れると感じられるようになります。まずは子どもたちの読書にどんな物語を勧めたらいいのかを考える前にご都合主義なのか必然の展開かを見極める習慣をつけることが大事だと考えています。

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