2021年6月

2021年6月 · 2021/06/30
 今年度、はじめて「本はともだち」を取り入れてもらった学校があります。この事業は30年近く継続していますが、一度も伺ったことのない学校です。「本はともだち」で紹介する本は子どもたちの取り組みを円滑に進めるために学校図書館でも用意してもらっています。基本的に2年生が対象なので、その時期に紹介したい本はある程度限られてきます。同じ組み合わせで同じ本を毎年紹介することはありませんが、それでも何回か伺った学校では新しく購入してもらう本が減っていく傾向があります。「本はともだち」で取り上げる本は基本的に時代が評価を通した本だからです。今回その学校がはじめての取り組みということもあり偶然1回目に紹介した本6冊とも今年購入してもらったものでした。こんな偶然は滅多に起こりませんので、私自身が新品の威力を目の当たりにしました。ましてや全冊新品でしたから、かなりインパクトがありました。図書館の本を新品に買い換えることはポップなどのように、その本を目立たせる効果があることを実感しました。  子どもたちは表紙を見て選ぶ傾向がありますが、本の状態も選ぶ条件に入っていると感じます。そして図書館の本は置いておくだけで、くたびれていきます。どう管理しても色があせてきますし、破れやほつれなども起こります。予算の問題もあり、買い替えに躊躇することもあるかと思いますが、長く読み継がれていく本こそ定期的に買い替えていくことが必要なのではないかと思いました。ただどれを買い換えるかを決めるには、どの本が読み継がれていく本なのかを見分ける必要があります。また昨今の出版状況ですと、買いたい時に買えるとは限りません。出版状況を見据えながら読み継がれていく本を守っていくのも図書館の役割ではないかと感じています。
2021年6月 · 2021/06/29
 子どもの読書活動の推進に関する法律が制定されてから、学校等で読み聞かせが行われることが増えました。この法律自体が子どもの読書活動の推進に関して国及び地方公共団体の責務等を明らかにするとともに、子どもの読書活動の推進に関する施策を総合的かつ計画的に推進することを定めているため、計画に読み聞かせが取り入れられたことが大きいと感じています。この法律の果たしている役割は大きいと思いますが、読書という個人の営みに関わるため、子どもの読書活動推進の目的は子どもの健やかな成長に資するとなっています。図書館法などもそうですが、あまり具体的な目的を掲げると読書活動が不自由になり本末転倒になりかねないため、できるだけ多くの活動が該当するような内容です。けれど許容範囲が広いということは、とりあえず活動していますという形にもなりかねません。そしてこれが法律の限界なのだと思います。そのため現場は子ども読書推進計画から何を汲み取って実践していくのか判断が必要なのだと思います。  そして読み聞かせに関しては、現段階では読み聞かせをやっていることが重要だと考えられています。どこの学校でもボランティアを募って読み聞かせのグループを立ち上げています。特に学校は現在地域の人が関わることが推進されているので、その目的にも合致し様々なタイプの読み聞かせが行われています。子どもたちが楽しめるよう工夫を凝らしたものも多く子どもたちに楽しい時間を提供していることは法律の成果だと感じています。  ただ楽しい時間で終わってしまっては読書活動の推進にはならないのではないかと感じています。読み聞かせを楽しめば読めるようになる訳ではないことを学校司書は知っています。学校図書館はその次を考えていくことが大事です。「読んでもらって楽しい」で完結させずに「自分で読んで楽しい」までつなげていけたらと考えています。

2021年6月 · 2021/06/28
 子どもに関わる活動は、話題になりやすいと感じています。今までにない新しい取り組みに光があたりやすく評価が集まる傾向があります。子どもは未来を作るので、次世代に何か残したいという人間の本能と未来への期待は普遍的なもので多くの人に共感されやすいからだと感じています。...
2021年6月 · 2021/06/27
 天井まで壁一面に表紙を見せて絵本が並べられ広く美しい木製の階段や空間を渡れる金属製の階段が配置され、見ただけで心惹かれる子どもを対象とした図書施設のHPを見ました。建築家の安藤忠雄さんが設計し、大阪市に寄贈した図書施設「こども本の森 中之島」です。この施設は中之島公園内に位置し建物内部全てが子供のための閲覧室という作りです。気になる本が見つかったら、どこでも好きな場所で読み進めて構わないをモットーに建物を中心とする中之島一帯が自由に読書を楽しめる「本の森」だと謳われています。鉄筋コンクリート造 3階建で延床面積が約800平方メートルということですので、子どもに特化したこともあり図書施設としてはこじんまりした印象です。2020年7月開館だったためか、完全予約制の施設です。事前予約なしには入館できないというのは図書館じゃない感じがします。そしてどうも図書館ではないらしいのです。  この「こども本の森 中之島」は図書館法に則って運営しないため、建物を寄贈された大阪市はこの建物を図書館ではなく文学を中心とした良質で多様な芸術文化等に触れる機会を提供する文化施設と定義づけています。そのため所管は教育委員会ではなく首長部局となっています。そして特徴的なのは寄付で運営を賄おうとしている点です。そのため寄付を全面に押し出し寄付してもらえる様な施設を目指している印象です。大阪市のHPには寄付をした企業や許諾が取れた個人名の一覧があり、集まった寄付の総額が公表されています。寄付の金額によって銘板での公表や褒章制度に該当する等の説明まであります。加えて寄付に絡めて企業が営利目的で関わることも可能になっています。現在この施設は指定管理者制度で運営されていますが、指定管理者制度の危うさの本質を見た思いです。指定管理する側の設定によっては図書館であろうとしたものが図書館ではないものになることもあるのです。安藤忠雄さんの理念と建物が素晴らしいだけに、なんとも後味が悪い感じでした。そしてこの「こども本の森」は遠野市、神戸市と次々と計画され順次開館する予定です。そしてどちらも同じ様に寄付を募っています。このプロジェクトがどうなっていくのか今後も見ていきたいと思います。

2021年6月 · 2021/06/26
 公共図書館は公共施設ですが、公共施設の中では特殊なものだと他施設を利用する度に感じます。他施設は利用者団体として許可されていたとしても利用前に必ず予約や申請が必要です。けれど公共図書館は利用にあたって許可を取る必要がありません。休館日と開館時間さえチェックしておけば、思いついた時に即利用が可能です。公共図書館が利用者の希望を広く取り入れようとするのはこの特性のためだと思います。けれどこの利便性の反映で、希望の集中する本や話題の本の扱いが問題にされることが多いのも公共図書館です。いつでも好きな時に行ける場所ではありますが、いつでもすぐ希望の本が借リられる場所ではないことを納得してもらえていないのだと思います。予約が集中する本の予約待ちに対する苦情などはその最たるものだと思います。けれど話題の本を複数購入することで待ち時間を軽減することは図書館の蔵書としては限界があります。話題が下火になった後その本は複数は必要なくなり廃棄することになります。廃棄は蔵書を最適なものにするために必要なことですが、同タイトルの本を多数廃棄することは無駄につながり図書館としては望ましい形ではないと思います。予約が集中するために待つのは図書館の本が公共のものだからこそ起きるという理解が必要なのだと1人の利用者として感じています。  読みたい本がすぐ手に入ることが公共図書館の役割だと思われていますが、大事なのは読みたい本が時間がかかっても必ず手に入るという点だと思います。予約待ちの様に元々本の所在がわかっていて待つだけでなく、所在がわからない本でも公共図書館から辿ることで、出版されている本なら必ず見つけ出すことができます。そしてどこの蔵書かわかれば、所蔵している図書館との橋渡しを公共図書館がしてくれます。  公共図書館は他の公共施設の様に利用する際の手続きが必要ない分、利用者は自分の読みたい本だけでなく蔵書としての感覚を持つこと、図書館ならではのネットワークがあることなど特色を知ることが大事だと考えています。図書館の利用者はお客様ではなく図書館が図書館として存続するための要員だと思います。蔵書という形で集合知を形作り風化させないことを役割の一つとして生まれた図書館は、持続可能かどうかという視点を利用者も持つことを求められていると感じています。
2021年6月 · 2021/06/25
 マスク生活が長くなり、マスク着用で話をすることが日常的になりました。マスク生活では表情で伝えることができないせいかしっかり伝えようと思うと、話すときに無意識に身振り手振りを使っていることに気がつきました。ボディーランゲージは体系化されたものですが、特に学んだわけでもないのに無意識で取り入れていることに驚いています。なんとか伝えたいと思う気持ちが体を使うことになるのだと思いますが無意識で出るからこそ有効で、使わなければと思って取り入れるとわざとらしいのではないかと思っています。感覚としては、手紙を書くときには使わないのに、メールを書くときには顔文字などを使う感じです。お作法で顔文字を入れる訳ではなく、使いたい気分の時に使う感じでしょうか。  そして思うのは人間のたくましさと可能性です。コロナ禍という、生活の仕方を否応なく変えざるを得ないという困難が降りかかっても、その中で適応するために変化していけることは希望だと感じています。そして環境に順応できてきたからこそ生き延びてきたという人類の歴史を思い起こしています。できれば巻き込まれたくなかったというのが本音ですが、過去の様々な困難を超えてきた人たちも同じ思いだったのだと思います。やはり置かれた場所で自分の持てる力を使い最善を尽くすしかないのでしょう。力を発揮するために考え工夫することも大事ですが、伝えたいと強く思うことが答えを導き出すこともあるのだといつの間にか体を使って話をしていることで気がつきました。

2021年6月 · 2021/06/24
 物事がうまくいかない時、原因を特定し対策を立て改善をしていくことは活動していく上で合理的なやり方だと思います。これをよりシステム化した考え方に「PDCAサイクル」があります。元々製造業での品質管理における効果的な手法として提唱されたものです。PDCAとは、Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)の頭文字を取ったもので、継続的に品質を管理するための手法です。これが広まり、製造業だけでなく分野を問わずにいろいろな場面で活用されるようになっています。企業等で取り入れられている場合は目にすることがなかったPDCAサイクルですが国や行政の計画に盛り込まれるようになったため、私たちの目に触れる機会が増えてきたと感じています。このやり方は中長期計画を立てて仕事をする国や行政のやり方と相性がよく、以前取り上げた上田市の総合計画などでも目にします。  この手法自体に問題はないと感じていますがPDCAサイクルで仕事をすることが日常的になってくると、この考え方が習性になり仕事以外でも無意識で使うようになる人が出てきています。特に評価と改善は、対人関係に応用されると非常に違和感を覚えます。相手に悪気がなくとも対等に扱われていないと感じますし、大袈裟に言えば個人の尊厳を脅かす感じがします。評価と改善はセットで1人の人が行うべき物ですが、人に応用すると評価する人と改善する人が別になるからではないかと思います。  けれど学校においては評価が日常的に行われてきました。テスト等で学習の進捗状態を計ってきたからです。児童生徒の様々な側面に対して評価基準が用意され複合的に判断すべきものとして扱われてきました。そして学校での評価が全てではないと社会が許容することを前提に成り立ってきたのだと感じています。しかし社会が学校での評価を重視する方向に転換している今、主体性のある学びという形で学校が変化しようとしてきています。主体性のある学びは学ぶことを子ども自身が自分で計画し実行し評価し改善していくということです。まさしく学びをPDCAサイクルに則って行うことを求めているとも言えます。おとなと同じことを求められていることが子どもたちにとって良いことなのか、私にはわかりません。子どもの人権を尊重して対等に扱うということがおとなと同じことをするということなのか、そしておとなになったらやらなければならないことを先取りして習得しておくことに意義があるのかは意見が分かれるところだと感じています。読書という一点で子どもたちと関わっている私としては、どう変化しても読む力が必要で、言葉の習得が必須だということはいえると感じています。
2021年6月 · 2021/06/23
 子ども読書推進の基盤となるのは、生活に根ざした言葉の習得だと考えています。それは難しいことではなく、自分の周りのものは全て言葉で表すことができ、自分と他者を言葉を使うことで分けることができ、自分の思いを言葉で伝え、他者の思いを言葉で受け取ることができることだと思います。もちろんこの能力は年齢を重ねると共に進化し、より巧みに使えるようになっていくものですが、言葉を使うことが習慣化していないと読書につながらないと感じています。  あまりにも当たり前のことで、そんなことができない子がいるのかと思う人もいるかと思います。けれど小学生と付き合っていると言葉の習熟の未熟さが原因と思われる問題行動に出会うことがままあります。今の子どもたちは年々幼くなってきていると一括りに言われていますが、この幼さの原因の多くが言葉をうまく使えないことにあるのではないかと推測しています。例えば感情がコントールできずに癇癪を起こす、相手の意図が受け取れずに噛み合わないやりとりになるなど、幼児だったら日常風景ですが小学生がやるのでおとなが戸惑うのだと考えています。幼児期に戻ってやり直すわけにはいきませんから、足りない分を今どう補っていくかが重要です。そのためにまず、日本で生まれ育っているにもかかわらず日本語がうまく使えない子が出てきている事実から目を背けないことから始めるしかないと考えています。  けれどどうすればいいのか私も明確な答えを持っている訳ではありません。ただヒントになるのがアメリカの読書教育ではないかと考えています。アメリカは移民の歴史が長いので、アメリカ人であることと英語が使えることが同列に捉えられています。そのため移民への英語教育に長年熱心に取り組んできた歴史があります。その中には英語が母語ではない子どもたちへの学校教育が含まれていて、その方法論が確立しています。そして教材といっても差し支えないような言葉を教える絵本も多数出版されています。これからは言葉の習得ということを視野に入れて考えていかなければならないのだと思います。

2021年6月 · 2021/06/22
 何度も書いていますが、私は書くことを苦手だと思って育ち今まで過ごしてきました。そのため子どもたちの読書に関しては読む力の習得に寄り添える感じがしますが、書くことに関しては自分自身を含め書く力の習得自体に確信が持てていません。話すことがある程度できるようになることが読むことができるようになる始まりで、読むことが可能になると書くことができるようになる始まりだという、言葉を使いこなす順番を知っているだけです。私は話すことを生業としてきたので話すことと読むことの連動は強く感じています。多分読むことと書くことも連動しているであろうと思いますが実感できるほど書いてこなかったというのが現実です。そして本を読む人は書くことができるという言われ方にプレッシャーを感じてきました。自他共に認める読書好きにもかかわらず書きたいと思えず書けなかったからです。  先日、偶然ある小学校の先生がおっしゃった一言にハッとしました。「何を書いたらいいのかわからないと子どもは言うけれど、それでも書いているうちに書けるようになるもの」という言葉でした。言葉は使ってこその言葉です。私はなまじ読めたものですから、自分もまわりのおとなも書けないはずはないと思ってしまい、書いているうちに書けるようになるという当たり前のことを見失ったのだと思います。思うように書けないことで書くことを放棄してしまうのはとてももったいないことだと今ならわかります。子どもたちに対して思うように読めないところで諦めてしまわないように工夫しているのですから書くことだってやはり同じなのです。言葉の習得は時間がかかり、習得する者もそれを支える者も根気が必要なことだと改めて思います。そして使うことでしか身につかないものですから、習得を支える者の根気と言葉を使いこなすことに喜びを感じていることが必要だと強く思いました。
2021年6月 · 2021/06/21
 子どもの読書に関わってきて、読むことが苦手な子どもたちも必ず読めるようになるはずだと感じています。子どもたちは特に教えなくとも物語を好みます。自分で読むようになる以前から絵本を楽しみ物語を聞くことを楽しみます。物語を好む理由をあげれば個々違うのでしょうが、もっと大きな括りで捉えると物語は人類の進化と共に人間の営みの中に既に組み込まれていると思えます。  そして今私たちの前にいる子どもたちがどのような環境でどのような経験を積んできたのかによって現状の読む力の差を感じることがあります。けれど読書するための望ましい環境と望ましい経験というのは読むことへの移行がスムーズいくためのものであり、その経験がなければ読めない訳ではないことを子どもたちの読書に関わる者は意識する必要があります。読む力を身につけていく過程は様々で進捗も様々です。子どもたちの成長は規則的に同じペースで進む訳ではありません。ゆっくり進んでいる子どもがある日突然変化することは珍しいことではないと感じています。  子どもの成長を考える時、思い出すのがおむつの話です。子どものおむつがなかなか取れずに悩んでいた時、先輩お母さんの「おとなになるまでおむつが外れなかった子はいないよ」という言葉にハッとしたことがあります。学校は同年齢の子どもが集団になっていますから、おむつと一緒で習熟度を比較しがちです。けれど大事なのは習熟度ではないのだと思います。その子が読めるようになる道筋を示し丁寧に付き合うことが子どもの読書に関わる者の務めだと感じています。

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