2021年10月

2021年10月 · 2021/10/31
 子どもの本について考え続けていると、読書をどう捉えるかというところに戻ってくる感じがします。読書すること自体が子ども時代の特別な営みではなくその人の生涯に関わるものだからです。そして読書をするかどうかは最終的には個人の判断に任せられている類のものであることは否定しようがないと思います。だからといって読まないのは個人の自由だとおとなと同じ扱いで子どもの読書を捉えるのは違うと考えています。  子どもの読書の場合、注目しなければいけないのは読む力と本に対する期待感だと考えています。読む力が十分でない場合、往々にして読むことに割く労力と読書した満足感が一致しないことが多いと考えています。読み進めることに力を割き過ぎて内容を楽しめないか、読み進めることは容易でも内容に満足できないという事態に陥りがちなのがひとり読みを始めた子どもたちが抱える問題だと思います。  読む力をつけるための方策としてMIMのようなアプローチがあったりしますが、読み方に関しては基本的には国語の時間が充てられているのだと思います。そして語彙力という点では普段言葉を使うことで知らずに語彙を増やしているのだと思います。母語の習得が外国語を学ぶ過程と違うのはこの日常的に使っていることが大きいのだと考えています。遊びの中に言葉を使うものが多いのも母語だからこそという要素が大きいと思います。ですから図書館が関わる場合、別段読みのトレーニングとして読書を捉えなくとも良いのではないかと思います。  そしてもう一点の本に対する期待感は、読んでおもしろかったという経験を積むことでしか身につきません。そのため自分で読む以前から物語の楽しみを体験する方法として読み聞かせやストーリーテリングが機能するのだと思います。物語を楽しんだ経験が自分で読む際の意欲につながるのだと考えています。そして自分で読むにはハードルが高い本でも読んでもらえば十分楽しめるものです。そのため読み聞かせは聞くことで読んだことにするのではなく、本に対する期待感を育むものだと考えています。物語を楽しむ力の方が先に上達するので読む力が追いついてくるまでその差を埋めるものとして考えた方がいいと思っていますし、折に触れて自分で読むことを推奨した方がいいと考えています。そして二つの力の差を埋めることが本に対する期待感を育むことだと考えています。
2021年10月 · 2021/10/30
 私は読み聞かせをしているので絵本といえば絵と文章を同時に楽しむものと考えています。けれど絵本の作り手によってはそれを前提にして絵本を作っていない人もいます。それでも読み聞かせでこそ楽しめる作品は存在します。また読んでもらったことがあっても自分で読書することでしか受け取れないものもあると思います。そして読み聞かせで渡す絵本と自分で読むために渡す絵本の境界線は曖昧な上、同一の読み手でも状況によって変化したりするので、この違いを意識されることが少ないと感じています。  けれど読み聞かせか自分で読むかという究極の選択のような議論が多すぎるのではないかと思うのです。読めないのだから読んであげた方がいいという考え方も自分で読むことが大事だから読めるような本を渡した方がいいという考え方もどちらもある意味正解で時と場合によるのだと思います。それなのにその選択の一部分だけ取り上げすぎだと感じています。例えば読み聞かせることで読書につながったというような効果が出た部分だけ語られますが、効果を感じさせるにはどれほどの時間を費やしたのかはあまり語られません。例えば学校で読み聞かせを行うことで読書につながる手応えを感じようとしたら最低でも毎日必ず読み聞かせを取り入れることが大前提だと思います。図書の時間やボランティアが入ることは読み聞かせの環境を支える助けにはなってもそれだけでは足りないと思います。だからといって読み聞かせをすることが無駄だというのもまた極端なのだと思います。また自分で読むということに焦点を当てすぎて、読書力が足りないから読めないのであって内容よりもその子の読む力にあった本を手渡すのが大事というのも極端だと思います。らくらく読めるから楽しめるかと言えばそういうものでもないですし、読める本のジャンルが極端に偏ったり気に入った本しか読めないというのも読めるようになったということにはならないからです。  大事なのは問題の整理をすることだと思います。子どもたちが自分で読めるようになるというのは子ども読書推進で欠かせない視点です。そして読めるようになる道筋は一つではないことをまず意識する必要があります。そして複合的にサポートすることが大事だと思います。読書を考える時にはこれさえやっておけば大丈夫といったすっきりした解決策などなく、成果は見えにくいけれどもそれぞれがそれぞれの立場でコツコツと積み重ねることが重要だということを意識し続けることが重要だと思います。

2021年10月 · 2021/10/29
 読書の魅力のひとつは、繰り返し読むところにあると感じています。繰り返しといっても時間を空けずに何度も読むことだけでなく年単位で時間をあけて読むことも繰り返しだと考えています。特に子ども時代に読んだ本はおとなになってから読んだ本より記憶に残っていることが多いので、内容がわかっているつもりでも読んでみたら思っていた印象と違うことがあります。自分の経験値が物の見方を変えることや気になる登場人物が子どもの時と違うこと、また子ども時代より自分の価値観がはっきりしているので印象が変わるのだと思います。  子どもを読書に導く際には将来的にこの変化の楽しさを含めて楽しんでもらえるようにしたいと考えています。そのためには、同じ本を繰り返し読む経験が欠かせないと考えています。繰り返し読んでも楽しい本という視点は時代が評価を通した本に通づるものがあります。読み飽きない本というのは一人一人違うのだと思いますが、それでもある程度括れるものでそれが時代が評価を通した本なのではないかと実感できるようになってきました。  ただ繰り返し読む楽しさをわかってもらおうとして読後感が変化することなどを説明してしまっては台無しだと思います。これは自分で発見するからこその驚きであり楽しみです。私たちができるのは同じ本を繰り返し読むことを否定しないことです。そして何度読んでもおもしろい本があることを手渡す本で示すことだと思います。  最近子どもたちは年齢なりのあどけなさの残る問いに最先端の情報を授けられて、なんでも知っていると思いこみ発見の驚きがないので知る喜びが薄くなってきていると思います。人がほとんど到達したことのない風景だろうと絶滅危具種の生物だろうと鳴き声までもインターネットで探せばたちどころに知ることができます。どんなに些細なことでも、時間がかかろうとも、既に知られていることであろうと自分で見つけ出した喜びというのが実は知的好奇心の土台だと思います。本も自分で読んでこそ自分のものになり、自分で発見することが読書の喜びだと思います。
2021年10月 · 2021/10/28
 読み聞かせの講座をしていると普段図書館をあまり利用していない方にお会いすることがあります。そうすると図書館にいくこと自体に馴染みのない方にとって図書館がどう捉えられているのか知る機会となり新しい発見があります。...

2021年10月 · 2021/10/27
 私は物語を楽しんで欲しい、読書する仲間を増やしたいという一点だけで子どもたちと関わってきました。そしてこの考えに賛同し一緒に活動してくれる仲間と共に年月を重ねてきました。横のつながりを勧められることもありましたが、自分たちの活動に集中することがささやかでも社会に関わり還元していくことにつながると考えあまり他の団体と交流してきませんでした。そして社会も活気があり次々と新しいことに取り組む人たちを生み出し横につながらなくてもそれを受け入れる土壌があったのでそれで不自由を感じることはありませんでした。  けれど最近、新しい波が起こりにくくなっていると感じています。自分のことに手一杯で余力がないと感じる人が増えたことと、何か事を起こす際に即効性を求める風潮が強くなってきているからではないかと想像しています。そして責任という言葉が以前より重くすべての人にのしかかっていることも問題です。誰も責任など負えないものにも責任が問われかねない風潮の中、責任が負えるかという視点が必要以上にブレーキとして働いているように思います。そして労働力に対する価値が下がってきている上に自然災害や疫病が流行るといったダメージがじわじわと私たちの生活を脅かし、様々な活動において予算は減ることはあっても増えることはないと無気力な気分になってきています。  先が見通せないだけでなく明るい未来を想像しにくい状況になっている今、必要なことを整理する時期なのかもしれないと考えています。今までは新しい取り組みを増やしていくことがより快適な生活を生み出し社会を潤すことだと信じてきました。けれどその余力がない今、予算も人材も限られていることをスタート地点にすることからもう一度考えていく必要に迫られているのだと思います。そんなことはとっくに取り組んでいて予算は減らされどんどん苦しい状況になるばかりだと感じている人も多いとは思います。けれど仕事の優先順位をつけないまま、一律に人が減らされたり、雇用体系が変えられたりしてきたことが困窮の原因だと考えています。以前より少ない予算で以前と同じサービス体系が守れると考えてきたことを見直すことから始めるしかないと思っています。そのためには横のつながりが大事だと思います。誰がどこで何をしているのかが意外とわかっていないのだと思います。子どもの読書という一点でも様々なアプローチで様々な活動が行われています。住み分けているからいいやではなく他を知ることで自分のやっていることが客観的に整理でき、優先順位が見えてくるのではないかと考えています。
2021年10月 · 2021/10/26
 私たちが立っている今現在という場所はまず時間の流れがあり加えて人の集合体として生活が成り立っているのでその動きを感じていくことが大事なのだと思います。そしてそれは正解が変化することでもあります。まさしく臨機応変という感じでしょうか。どれだけ準備しどれだけ研究しても条件が一つ変わっただけで答えが変わっていくことに徒労感を覚えるのではなくおもしろがれることが大事なのだと思います。そういう意味では年齢を重ねると体力と気力が衰えるためどうしても安定を求め変化を嫌う傾向があると自分を見ても思います。  先日20代の知り合いの話を聞く機会がありました。車が好きでネットで調べては気に入った中古車を買うのが趣味なのだそうです。実物を見ることなくネットで契約を結び、安くはない品物を取り寄せで買うという感覚も驚きましたが、一般的な会社員で特別高収入だという話も聞かない彼が車というお金のかかる趣味をどうやって実現させているのかも気になりました。聞いてみるとなんでもない事のように副業というかお小遣い稼ぎをしているというのです。それも馬とFXと株というリスクの高そうなものにチャレンジしているのだそうです。競馬と聞くと耳に鉛筆を挟んだおじさんが競馬場に通い詰める姿が思い浮かぶという失礼な先入観があるので若い世代がお小遣い稼ぎに手を出すものだとは思っていませんでした。また投資も知識がないと難しいという先入観があるので一般人が手軽に試すものだとは思っていませんでした。彼の口調から稼げたら嬉しいしお金が貯まればほしいものが買えるからというゆるやかで余裕のある感じが伝わってきて、世代の違いを感じました。けれど彼のお小遣い稼ぎの方法がいいか悪いかは別としてやってみようという気には到底なりませんでした。なんというか勢いが違うとしか言いようがありません。  でもこう言った話を聞くと同じ世代だけで固まらない方がいいのかもしれないとは思います。世代が同じ方が分かり合える感じはしますが、どんどん世界が狭くなる感じがします。自分が新しいことにチャレンジしていくばかりでなく新しいことを取り入れていく様を見聞きすることも刺激を受け世界が広がる気がします。同じことを選択しないからこそ自分の世界でのヒントになるような気がしました。間口を広くしておくことが意外と大事だと今思っています。

2021年10月 · 2021/10/25
 子育てにマニュアルがあったら子育てしやすいのではないかとか、逆にマニュアルがあっても教科書通りにはいかないとかいわれますが、子どもが育っていく過程は様々な要素が絡みあって複雑なものです。子育てについて書かれている本は、著者の個人的な体験を元にしたものか、研究者がデータをとってそれを分析して導き出した子どもの傾向だったりするので実は例外が多いものだと子育てを経験して思います。今だからこそこんなことが言えていますが、実際子育てをしているときは藁にもすがる思いになることも多かったので現状打破のために特に選びもせずに手当たり次第育児書を読んで、より混乱しました。  そして子どもに関わる時には自分の軸足をどこに置くのかということがとても大事だと思います。親と教師では軸足が違います。親は我が子が育っていく過程に寄り添いどんな時も手を離さない立場ですし、教師は集団としての子どもたちに寄り添い学校生活の中での伴走者です。学校教育で個が重視されるようになってきても親のような寄り添い方をしようとすると集団としてのルールが成り立たなくなり集団で学ぶこと自体を否定してしまいます。そのため集団として機能していくための目配りが中心となり子どもたちを相対的に捉える場面が出てくるのだと思います。  そんな中で学校図書館ではこの個人に寄り添うことと集団として捉えることの両方が求められるのだと思います。親とも教師とも違う軸足なのだと思います。今風に言えばハイブリットですがこれが意外と難しいことなのだと思います。両方のいいとこ取りをする予定がひとつ間違うとどっちつかずになったり両方の悪いところを取り入れてしまうこともあるからです。大事なのは子どもたちに何を学んで行ってほしいのかを明確にすることです。そして子どもたちと関わっていてうまくいかないことは軸足を変えると言い訳に使えてしまうことを心に留めておくことが大事です。本当なら一人一人に寄り添いたいのだけれど、ひとりでは無理などというのはその典型的な例です。 親のように寄り添う立場でも教師のように集団として捉える訳でもないこの中間ともいえる学校司書の立場でしかできないことがあるはずだと考えています。集団としてみる目と個人をみる目の両方を兼ね備えた学校司書の軸足があるはずです。この軸足を決めることで打開策が見えてくるのではないかと考えています。
2021年10月 · 2021/10/24
 子どもの読書に長いスパンで関わってきて思うのは、子どもの本質は変わらないということです。そして読書することも本が生まれてから変わることなく営まれてきた変わらない行為です。短いスパンで捉えると社会のありようによって本の価値が変わったように見えたり、活字離れと言われ子どもが本を好まないのではないかと思われたりと変化しているように見えます。けれどよく観察すると変わっていないのではないかと感じています。  私は「本はともだち」事業を続けてきたことで、子どもたちの「本が読めた」という喜びに立ち会ってきました。小学校低学年という年代の子どもにとってできないことをできないと認めることから学びを始めるのはとても難しいことです。自分はできないのではなく、今はたまたまできないけれど絶対できるようになるという感覚を持っているのがこの年代の特徴です。今日はできなくても明日はわからないという、おとなから見たら眩しいような前向きな思考が子どもたちの成長の原動力です。ですから読むことに苦戦していてもそれを口にすることはありませんし、読めないと自分を見切ってしまうこともありません。だからこそ読めた時の喜びが大きいのだと思います。「僕も読めた」「こんな本が読めるようになった」という声は本が読めるようになりたいという子どもの意欲の表れだと思います。  そして大事なのはその段階で褒めないことだと考えています。こんな本が読めるなんですごいと褒めた途端、本の厚さや長さといった、本の内容から離れたところに子どもは達成感を感じるようになってしまうからです。ですから読めるようになったことで本を楽しむを準備が整い読書の世界が広がったことを共に喜ぶことが大事だと考えています。そしてそれがおもしろかったなら、今度はこれはどう?と内容で水先案内人を務めるのが図書館員の仕事だと考えています。図書館と連動しなければ「本はともだち」事業は完成しないと感じています。

2021年10月 · 2021/10/23
 生活様式が変わると私たちの経験値は無意識で変わっていきます。子どもたちが何を積み重ねているのかは生活様式や習慣の影響が大きいと感じています。MIMの取り組みなどから今の子どもたちに足りないものが見えてきますが、以前の育ち方の方が良かったということでもないと思います。以前の育ち方をしないということは生活様式から変わったということで以前の育ち方では身につかないものが育っている可能性があるからです。けれど読む力といった子どもたちが生活する上で一生必要とされ続けるであろう力は今の育ち方で身につかないのであればサポートしようということなのだと思います。例えば正座などの床に座る習慣が椅子を使うようになり、布団がベッドに、トイレが和式から洋式に変化したことで体の使い方が変わり、日本人の気質と言われたような性質が変化してきたのだと思います。身体をどう使うかの経験値の差は人が形作られる時に影響を及ぼしますが、今と昔とどちらがいいということでもないのだと思うのです。  ただどう体を使っていくのかの経験値は侮れないとは思います。例えば和式トイレを使っていたときは必要に迫られて毎日否応なくスクワットをしていたようなものだからです。毎日10回未満でも生きている限り続くのですからトレーニングとしては侮れません。だから和式トイレに戻そうというのではなく、今の生活様式に沿って経験値が上がることを考えていくことが大事なのだと思います。読むことに関しても子どもたちが本に興味を持たないなら子どもたちが喜ぶようなビジュアル的に目を引くものを手渡すといった対応では本を読むという力が育つ積み重ねにはなりません。子どもたちに本を手渡そうとする時には、子どもたちが楽しみながら読み、それを負担に感じない形で積み重ねていける方法を考える必要があります。遊びとして組み込まれていた言葉の習得を現代ではどんな形にしたら子どもたちが無意識に積み重ねることになるのか考えてみたいと思います。
2021年10月 · 2021/10/22
 先日、担当の先生のご好意でMIMの授業を見学しました。見学にあたって予習したところによると、MIMは仮名文字の読み,特に「特殊音節」の読みに焦点を当てた学習法です。仮名文字の読みでつまずきを示すかもしれない子どもたちのつまずきを未然に防ぎスムーズに学習を進められる子どもを増やすことを目的としています。読みのつまずきは国語領域だけでなくその後の学習に影響を与えるので、学習の基本となる力を培うことを目的として取り組まれています。MIM-PM(めざせよみめいじん)というアセスメントで子どもたちの言葉の力を測り、それがMIMを機能させています。  見学して感じたのは学校司書が体験的に感じていたことを可視化するものだということです。子どもたちが何につまずいているのかが客観的に洗い出される授業です。そしてこういった学びが必要になるくらい子どもたちは言葉を習得していないのだと再確認しました。ただ学校図書館でも足並みを揃えてMIMを取り入れた対応をするというより、このアセスメントで洗い出されたことを知っておくことが大事だと思いました。MIMは読みのつまずきを防ぐというひとつのアプローチであり、読みへのアプローチは豊富な方が良いと考えるからです。  例えば読みのつまずきに特化したMIMの観点で本を見る時、その本は「教材」として考えられているのだと思います。一年生には福音館の012も必要だというのはこの教材としての役割だと実際授業を見学して思いました。ただおもしろいことに MIMの学び方は課題などもゲームの様に示され楽しみながら遊びに近い感覚で進められていきます。読み始めの子どもたちに本を勧める際も学びと楽しみが切り離せない感じがしていますが、アプローチの仕方は違っても言葉の習得というのは楽しみがベースになるものなのだと改めて思いました。本についての情報を豊富に持っている学校図書館はMIMの方針を踏まえた本の情報提供や学級文庫へのサポートなどで連動していければいいのではないかと思いました。

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