2021年7月

2021年7月 · 2021/07/31
 『王さまと九人のきょうだい』中国民話 君島久子/訳 赤羽末吉/画 岩波書店 は中国の少数民族に伝わる昔話を絵本にしたものです。文章の量が多く絵本としては絵が少なく挿絵としては絵がふんだんに入っていて絵本なのか読み物なのか迷う作りです。集団の読み聞かせが盛んになる以前は、絵本を読み聞かせるといったら親子で楽しむことが前提だったので、言葉の習得が進み長い物語を楽しめるようになった子どもに親が読み聞かせるものとして作られたのではないかと想像しています。昔話らしく善悪がはっきりしていて主人公の活躍が痛快なので子どもたちが物語の展開に夢中になる絵本でよく紹介しています。  腰が曲がるほど歳をとった貧乏な老夫婦がそれでも子どもが欲しいと願い続けていたら、仙人が現れ飲むと子どもが生まれるという九つの丸薬を授けてくれます。おばあさんが丸薬を飲むと九人の子どもが生まれ、また仙人が現れ名付け親になってくれます。仙人は九人に「ちからもち」「くいしんぼう」「はらいっぱい」「ぶってくれ」「ながすね」「さむがりや」「あつがりや」「切ってくれ」「みずくぐり」という一風変わった名前をつけますが、その子たちはその名の通りの特殊な能力を持った子どもたちでした。この奇妙な名前とその能力は子どもたちを虜にするのだなぁと紹介するたびに思います。そして描かれている九人の姿は特徴を表しつつどこか似ていて物語の真実味を増していると感じます。長じて九人の子どもたちはそっくりの姿に育つというのはこのお話の肝なのですが赤羽さんの絵は巧みに生き生きと主人公たちを書いていて物語を盛り上げます。昔話らしく余計な説明を入れずにぐいぐい進む物語の作りは読者を先へ先へと誘います。物語の作りと絵の魅力が相まって読み始めの子どもたちにぴったりの作品だと感じています。
2021年7月 · 2021/07/30
 夏休みの時期になると普段見ない時間帯に子どもの姿を見かけるようになり、自分の子ども時代の夏休みを思い出したりします。私の子ども時代はあまり問題視されなかった熱中症対策なのか、子どもたちが水筒を持って歩いているのを見て環境の変化を感じたりしています。また公共図書館では自由研究のコーナーができたりしていて、夏休みの宿題に四苦八苦したことなども思い出されます。  その中でも私は読書感想文にはあまりいい思い出はありません。本を読むことは私の生活の一部で数も読んでいたのですが、好きな本になればなるほど感想文が書けないというジレンマに苦しんでいました。読んである本のストックがあるので感想文用に改めて本を読む手間が省けて時短になると思われるのですが、返ってうまくいかないのです。私の場合その当時好きな本は、それこそ暗記するほど読んでいました。手元に置いて思いつくままに気に入った場面を読み返したりするのです。読み返す場面はいつも同じではなく、どこもかしこも好きだと思っていたりしました。こうなるとどこをどう取り上げて書いていいのか判断がつかず、結果また読み返してやっぱりこの物語はいいなぁと思って満足するという繰り返しになるだけでした。物語が好きすぎて書けないという体験は、書くことへの苦手意識を私に強く植え付けました。けれど宿題は宿題です。そしてない知恵を絞った結果、感想文を書きやすい本を読めばいいのだという結果にたどり着きました。私にとって感想文を書きやすい本は主題を抜き出しやすい本でそのテーマについて自分の考えを書く事で感想文になると気がついたのです。好きな本だと〇〇について書いてある本という風に割り切れず、主人公だけでなく他の登場人物の視点や考え方にも共感していたりして、多層的に読んでいたのだと思います。でもそれがわかったからと言って書けるかといったら、やはり書きたくない自分がいます。結局好きな本は自分の中で愛でるのが好きなのだと思います。

2021年7月 · 2021/07/29
 読むことに関して「筋を追うこと」が意外と注目されていないと感じています。まず字を識別して読めること、そして単語として受け取ることができていること、次に子どもに音読させて滞りなく読めているかどうか確認、最後にどういう話だったか内容を確認するのが一般的な読めるようになる際のチェック項目のように見受けるからです。違和感があるのは、内容を確認する際、あらすじとして内容をまとめることが求められる点です。きちんと内容を理解できていればまとめられるので手順としては正しいと思いますが、まとめられない理由がまとめるための力が不足しているからなのか、ちゃんと筋を追うことができないからかを区別せずに行われる気がします。まとめ方の指導は筋を追いきれていない場合には効果を為しませんが、まとめられないという括りで特に問題になっていないと思うのです。  家庭でたっぷり読み聞かせを受けてきた子どもたちに読解力があると言われるのは「筋を追うこと」が苦もなくできることにあると考えています。家庭で読み聞かせてもらうということは、物語を聞くということを積み重ねてきたということです。繰り返し繰り返し浴びるように物語を聞いてきたことが筋を追う力となり自分で読むときの助けになるのだと考えています。時間も手間もかかるこの体験をしてきたかどうかは自分で読む段階にスムーズに進めるかどうかの違いになっているのだと思います。もちろんこういった体験をしていなければ、次に進めないということではありません。環境に恵まれなかったとしてもやり方によって巻き返すことは可能です。ただそのためには、どこでつまづいているのかをきちんと見極めて、その子にあったサポートが必要です。子どもの要求に合わせてというよりは、次の段階にスムーズに進めるように道を開くのが大事だと考えています。そのために筋を追うことでおもしろさを体験できる物語を見極められることがまず第一歩だと思います。
2021年7月 · 2021/07/28
 思いつくままに読み始めの子どもたちによく紹介している本をあげていますが、『きょうはなんのひ?』瀬田貞二/作 林明子/絵 福音館書店もよく紹介する本です。...

2021年7月 · 2021/07/27
 日本での初版が1965年の『あおい目のこねこ』エゴン・マチーセン/文・絵 福音館書店 は長く読み継がれている作品です。自分で読むようになった子どもたちにぴったりな作りだと考えています。作りとしては幼年童話といわれる読み物に分類するか、絵本に分類するか悩ましい作品で、子ども時代に親に読んでもらったという人も多いのではないかと思います。本のサイズが絵本としては小ぶりで本の厚さがありますが、白地のページに色を押さえて主人公の青い目が印象に残る絵が描かれ、ページ数があるため絵と文章が一致していて絵読みができます。見開きに一つの絵という漫画のコマのような作りなので物語がサクサク進むのです。そして1の巻2の巻と章立てしてあり読み手の物語への期待が自然と高まる作りです。ねずみの国を見つけたらお腹をすかせることはないと考えた主人公がねずみの国を見つけに行くのですが、思いがけないことの連続で物語に引き込まれます。そして主人公は可愛らしくもかわいそうにも描かれずに起こったことに対処していき視覚的に訴えるわかりやすい絵が物語の展開を盛り上げます。そして「はえいっぴきでも食べないよりはましでした」と説明されている状況でも「なーにこんなことなんでもないや」と前を向くこねこに読み手は次を期待するのです。この作品は読み始めの子どもたちに必要な条件を揃えています。何しろ読みやすくておもしろいのです。読み始めの子どもたちは自分が読める本の内容に満足していない場合があります。自分で楽に読める本は内容的に満足できず、おもしろい本は読むのが難しいとジレンマを抱えていることが多いと考えています。『あおい目のこねこ』はこのジレンマを解消する作品だと思います。大事なのは子どもたちが物語の展開自体を楽しんでいることです。おとなはうっかり主人公の前向きな姿勢やひょうひょうとした対処に惹かれ、こねこの考え方に学ぶところがあると考えたりします。これはおとなならではの楽しみ方でこの作品の魅力の一つですが、子どもにとって重要な点ではないことを子どもの本を選ぶ時には忘れてはいけないと考えています。
2021年7月 · 2021/07/26
 読み始めの子どもたちに勧めたい本をあげるにあたって、まず思いつくのは岩波子どもの本です。岩波子どもの本というシリーズでたくさんの作品が出版されていて、どれも甲乙付け難い作品が多いのですが、まず取り上げたいのは 『こねこのぴっち』ハンス・フィッシャー/作 岩波書店 です。...

2021年7月 · 2021/07/25
 自分の書いているブログを比較してみて、このブログに足りないものが見えてきました。今問題点だと考えていることやどういう方向に持っていきたいのかということは書いていますが、子どもの本の選書をしたいと言っていながら、選び方について書いていないことに気がつきました。もうひとつの方は語り手に向けて書いているので、語るというのはどういうことなのか、重要なことは何かを語り手自身のことからテキスト、聞き手など切り口を変えて具体的に書いています。  けれどなぜ選び方に踏み込めなかったのかについて心当たりがあります。図書館での選び方を考えようとすると選書基準が思い浮かびます。選書基準はおおよその目安で具体性がありすぎてもなさすぎても使いにくい印象があります。法律などがいい例ですが何事も例外やグレーゾーンが生じがちです。そのため選書基準も実用的で汎用性のあるものを作るのは至難の技です。汎用性で思い出すのがこんまりメソッドといわれる片付け術です。これが世界的に受け入れられたのは「ときめく」という非常にわかりやすく万人に応用できる基準を使ったからだと思います。この「ときめく」ほど劇的ではないにしろ、選書に関して今までのものと一線を画したわかりやすいものを求めて考え続けた結果、書けるだけの答えに行きついていないのです。  こうやって現在の状況を書いてみると、結構無謀なやり方をしていることに気がつきました。選書基準から始めようとしているのですから書けないのは当たり前です。選書基準がなくても私は子どもが自分で読むための本を選んで、子どもたちに渡しています。今選んでいる本についてなら書けます。なぜこの本を選んだのかを書くことが選書するための視点を洗い出すことになり、書いた本の数が増えればそれが選書基準のヒントになるのではないかと考えています。読み始めの子どもたちと関わっているので、その時期の子どもたちへの本についてこれからは書いてみたいと思います。
2021年7月 · 2021/07/24
 現在私は「上田子どもの本研究所」用と「おはなしざしきわしの会」用の2つのブログを書いています。書き始めたときは、内容が違うものとしてくっきりとした線引きが私の中にあったのですが、最近その境界線が曖昧になってきています。どちらも私の中では「子どもの読書」という括りの中に入っているものです。そのため子どもを取り巻く環境や育っていく過程といった同じ問題が絡んできます。そしてどちらも今の子どもの姿だけでなくその子たちがおとなになっても読書に親しんでいけることを視野に入れています。感覚としては読書仲間を増やす感じでしょうか。そして2つの違いはブログを読んでもらおうとしている対象が違うことです。「上田子どもの本研究所」の方は図書館に関わる人を想定して書いていますし、「おはなしざしきわらしの会」の方は語り手を想定して書いています。けれど最近書きながら「あれどっちのブログの話だっけ」と自分でも戸惑うことがあります。書いている本人がこの調子ですから、読んでいる人も違和感があるのではないかと想像しています。  ただこんな風に改めて比較してみると、全体像がよく見えておもしろいと感じています。行政などが計画するとすぐに〇〇連絡会と言った括り方をして横の繋がりを作ろうとします。私はその動きが苦手でした。横の繋がりは足並みを揃えることを求められ自分の進もうとする力にブレーキがかかるイメージがあったからです。けれど自分のやっていることでも比較することで今回の様に気がつくことがあります。きちんと分析するには比較は大事なのだと思います。  今、競争の時代から個性の時代となり比較すること自体を避ける風潮があります。そして一方的な力の差を嫌って先生が学生を評価するだけでなく学生が先生を評価する時代です。何を良しとするのかを示せることが重要になってきています。選べる時代だからこそ、選んだ理由が必要で、選んだ理由には選んだ人のあり方が反映されると考えています。  図書館に当てはめると公共図書館や学校図書館は本を選んで蔵書としています。選んでいる以上比較検討は欠かせないと考えています。図書館が置かれている現状を考えると新たに比較検討の時間が取れるとは思えません。けれどこれは図書館が図書館であり続けるために必要なことだと思います。ここを支えるにはどうしたらいいのかを考えています。上田子どもの本研究所が子どもの本の選書に特化した活動をしたいと考えているのもその一環だと捉えています。

2021年7月 · 2021/07/23
 子どもの読書に長年関わっていますが、ストーリーテリングや読み聞かせから始めたせいかボランティアで関わることも多いです。ボランティアをしたかったのではないのですが、子どもの読書に特化する活動が含まれる職業を見つけられず、結果ボランティアという枠で活動をして来た部分があります。...
2021年7月 · 2021/07/22
 ストーリーテリングを学び始めた頃、言葉だけで物語を聞くのであれば物語の中で起こったことで聞き手がダメージを受けることはないと教えられました。それに関連して人は自分の耐えきれないようなことをリアルにイメージしないものだとも言われました。ストーリーテリングでは昔話がしばしば語られます。昔話の世界では死が珍しいものではありません。また主人公の苦難の中には虐待といって差し支えないようなことも起こります。また善人と悪人がはっきりしているので一般的な人間像とは程遠いものです。そして悪人が受ける罰は話によって苛烈なものも含まれます。こういった昔話の内容に眉を潜めるおとなも多いのではないかと思います。けれど物語の中で起こっていることを自分の痛みとして置き換えるには実体験が欠かせないのだと思います。リアルなイメージを持てば持つほど昔話で起こっていることは残酷で強烈なものになります。  おとなは自分の経験から、よりリアルなイメージを持ちます。例えば幼くして親をなくす主人公が出てくるとその境遇によって起こるだろう困難さを親が死んだということだけで想像します。一方子どもたちは主人公の困難さを食べるものが十分に与えられないなどの具体的な出来事の積み重ねで受け取ります。同じ話を聞いても自分の受け取れるだけのイメージを受け取っているのがストーリーテリングです。また昔話には現代では想像もつかないような罰も多く、それが残酷だといわれる所以だと思いますが、これもイメージの持ち方で印象が変わります。グリムの昔話に最後罪人を裸にして釘を打ち付けた樽に入れその樽を馬に引かせて殺してしまうというものがあります。ここまでくるとおとなでもリアルに想像したくないようなシーンですが、子どもに至ってはなんだかよくわからないけれど大変な罰が下されたのだと受け止めます。昔話ではそのシーンをリアルに描写するのではなく、罰の内容が言い渡され、そしてそのようになりました、という言い方をするからです。  このように殊更にリアルにイメージしようとしなければ、強烈なことが起こっていてもそのまま物語を受け取ることができるようになっています。映像のように受け身のものとの違いはここにあります。ですから残酷だといわれつつも昔話は映像作品のように年齢による制限をかける形にならなかったのだと思います。そして残酷だから子ども向けに内容を変えることは昔話にとっていいことだと思えません。言葉で伝えること、そして伝わり方を考えれば、そのままの形が昔話が一番映える形だと思います。昔話の本は地味な作りのものが多く子どもたちが自分から手に取るものではないですが、残酷だからと勧めないのはもったいないと思います。加えてたとえアニメーションだとしても映像化しない方がいいのが昔話だと思います。言葉の力が守って来た世界を言葉で伝えていかないと昔話の魅力を感じることができないと思います。

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