2021年8月

2021年8月 · 2021/08/31
 読み聞かせで楽しんでも自分で読んでも楽しい絵本として『アーミテージさんのすてきなじてんしゃ』クエンティン・ブレイク/作 あかね書房 もおすすめです。ただ「本はともだち」で紹介してきて思うのは小学生なら断然自分で読んだほうが楽しめるということです。何しろアーミテージさんの発想が独特で、子どもたちを夢中にさせるのです。主人公のアーミテージさんが自転車に乗ってお散歩中に困ったことが起きるとそれを解決するために自転車を改造しいくという物語です。けれどその改造は「えっそこ?」と子どもでも思ってしまうようなものなのです。けれどアーミテージさんはあくまで真剣で大真面目に改造していくので、どうなるのか気になって目が離せない感じになります。見開きいっぱいに描かれた絵は軽快で洒落ていてどことなくおかしみを感じさせます。そして文章は必要最低限で読み始めの子どもたちにも難なく読めます。真面目になればなるほど笑いを誘うというユーモアはおとなの方が受け取りやすいのですが、クエンティン・ブレイクの絵の雰囲気も相まって上質の笑いを子どもでも受け取りやすい作品です。いかにもイギリス的な表現は、好みが分かれるかもしれませんが、子どもたちに出会って欲しいものでもあります。  『アーミテージさんのすてきなじてんしゃ』は1997年に日本語版が出版されたのですが、現在品切れで手に入りません。時代を超える本を見極める基準として20年から25年以上読み継がれることと言われてきましたが、20年を超えてからの品切れが多いことに戸惑っています。そのため品切れや絶版が作品の力だけでなく、出版の問題も時代を超えることを阻んでいるのではないかと考えるようになりました。そして出版の問題は出版社だけでなく購入する側の問題でもあるので、他人事ではないと思っています。『アーミテージさんのすてきなじてんしゃ』も子どもたちが今も変わらずに喜んで読んでいる事実を知っているだけになんとかならないものかと思っています。
2021年8月 · 2021/08/30
 バージニア・リー・バートンの絵本は読んでもらってももちろん楽しめるのですが、自分で読んでもおもしろい作品が多いと感じています。『マイクマリガンとスチームショベル』バージニア・リー・バートン/作 童話館出版 は物語の構成と繰り返しの言葉の魅力で読み始めの子どもたちによく紹介する本です。日本では1978年に福音館書店から出版されましたが、1995年以降童話館出版から出版されています。読み継がれていく本として実力は十分なのですが買い支えることができず出版社の変更を余儀なくされた作品です。それでもこの作品を惜しむ出版社があったため辛うじて絶版を免れていますが、気を抜くと絶版になってしまうかもしれない絵本です。  この絵本にはスチームショベルという耳慣れない重機が出てきますが、蒸気機関車のように蒸気で動くパワーショベルという説明で子どもたちはすんなり納得します。英語版は1939年に出版されていますので、その当時の子どもたちには珍しいものではなかったのだと思います。そしてスチームショベルのメアリアンと持ち主であり操縦者のマイクマリガンが新しい重機が開発され時代に取り残され翻弄されていく様を描いています。物語についていくだけで時代背景や知識がなくとも読み手を納得させてしまうバートンの力量には目を見張るものがあります。また物語前半のマイクマリガンとメアリアンがどの様に仕事をし活躍してきたのか、そして二人の信頼関係がどのようなものなのかも説明的ではないのに説得力があります。物語として楽しんでいるうちに府に落ちる作りで理論的なバートンの視点が冴えます。そして何より物語の核となるフレーズが素晴らしいのです。マイクマリガンが口にする「100人の人間が1週間かかかって掘る穴を1日で掘ってしまえる」というこのフレーズが繰り返し出てきて通奏低音のように物語を支えます。そしてこのフレーズが物語の結末に関連していて子どもたちの興味を逸らしません。  図書館を預かっている人はぜひ『マイクマリガンとスチームショベル』が蔵書に入っているかチェックして欲しいと思います。そして状態が悪かったら買い換えてください。焼け石に水に思えるかもしれませんが個々のこういった地道な対応が絶版を阻止するのだと思います。図書館は時間を超えていく本を見守り支えサポートをしていく機関だと考えています。新しく出版されている本を購入しているのだから別に古い本は資料として保存しておけばいいというのはおとなのための本に言えることだと考えています。子どもの本は今の子どもたちに手に取ってもらうことが大事です。過去を知るための資料ではなく現役で活躍し続けるだろう本を見分け、今の子どもたちに手渡していくのも図書館の仕事だと考えています。上田子どもの本研究所は時代を超えて古びないものを見極める目利きを目指したいと思っています。

2021年8月 · 2021/08/29
 子どもたちに本を紹介する時に、極力文字の大きさや本の厚さに触れないようにしています。勧める側が読みやすさの理由を活字組や本の作りで説明すると、子どもたちが文字の大きさなどを気にするようになり、選ぶ基準になったりするからです。けれどひとり読みを始めた時期の子どもたちにとって内容とともに活字を追いやすいことも読みすすめる原動力になることもあります。  それを実感させてくれるのが『やかましむらのこどもの日』リンドグレーン/作 ヴィークランド/絵 偕成社 です。リンドグレーンはやかまし村を舞台に幾つも作品を書いていて日本では『やかまし村の子どもたち』『やかまし村の春・夏・秋・冬』『やかまし村はおおさわぎ』が岩波書店から1965年に出版されました。物語は家が三軒しかないやかまし村に住んでいる子どもたちの日常が子どもの目線で語られます。この物語の語り手がリーサという女の子だというのも語られる出来事が子どもたちに支持され長く読み継がれてきた理由の一つだと感じます。リンドグレーンは子ども時代、遊んで遊んで遊び暮らしたと回想しています。同じようにリンドグレーンの物語の子どもたちは、日常は楽しいことでいっぱいだと読んでいるものに感じさせてくれます。そのため内容的には読み始めの子どもたちにお勧めなのですが、岩波書店版は200ページほどとボリュームがあり勧める相手が限られます。2年生ぐらいだと手渡されても戸惑う子も多いと思います。その点『やかましむらのこどもの日』は1日の出来事に絞っているので、64ページの物語になっています。サイズ感も作りも本だと感じさせますが、絵が少なめの絵本と言っても成り立つ内容です。そして絵が主役でなく活字が主張しているのも読み始めの子どもたちにお勧めです。ページを開いた時に絵よりも字が目に入ることはこの世代の子どもたちにとって本が読めるようになったという満足感をもたらします。  そしてやかまし村の子どもたちと知り合いになり、好ましいと思った子は、ボリュームを気にせずに岩波書店版を読めたりします。岩波書店版の方が子どもたちの様子を長い時間で切り取っているので大きな事件が起こるわけではない日常の話でも続きが読みたくなるのです。本は中身で判断するというのはこんなことの繰り返しで身につくのかもしれません。
2021年8月 · 2021/08/28
 学校現場と関わっていると子どもたちの読む力が二極化しているのだと感じます。それも読めるか読めないかというかなり極端な二極化が起こっているようです。日本の識字率は世界に誇るものでしたが、識字率が下がりかねない危うさを感じています。読む力は数値化しにくく比較が難しいので読書離れ、活字離れといった言葉に紛れてここまで追い込まれてしまった印象があります。本を読まないのは個人の自由ですが読めないのは読書離れでは済まない問題だと感じています。  とりあえず問題点の整理と子どもの読書について総合的に考えていく必要があると考えています。学校図書館は子どもの読書について総合的に考えていくのに適している施設です。けれど図書館はその性質上利用者の要求に応えていくことを得意としています。特に学校は子どもたちを指導するのは担任の先生で学校司書は先生と児童生徒の両方からの要求にバランスよく応えなければならない複雑な対応を求められます。また先生によって要求が違うので図書館としてのスタンスが打ち出しにくい現場だと感じています。  そうはいっても実は、図書館も担任の先生も読む力の向上を目指しているという点では同じです。担任の先生は受け持ったクラスの子どもたちに足りないものを見極めて今解決できる方法を考えることが得意で現時点の変化を求めます。すべての学年に同時に関わる図書館は読む力が育っていくことに寄り添い時間をかけた変化を期待します。この違いは本来対立するものではなく相互に影響しあって子どもたちの読書環境を整えるものだと思います。様々な要求に右往左往するのではなく読む力を基盤に情報共有すれば立場を超えてよりよい方法が見出せるのではないかと考えています。そのために学校図書館が読む力を育てるという使命感を持ち図書館運営に取り組む必要があると思います。そして学校図書館が横のつながりを持ち上田市の学校図書館として機能できるといいなあと思っています。

2021年8月 · 2021/08/27
 先日小学生の女の子が好む絵と書きましたが、多様性が重んじられる現在こういった発言が問題視される傾向があります。環境による刷り込みが子どもたちに悪影響を与え個性が尊重されない住みにくい世の中が作られたという反省からの考え方だと思いますが、おとなの反省を直接子どもに反映させることが、子どもたちの多様性を守ることではないと考えています。  もちろん女の子だからこうしなければいけないとか男らしくないといった形で、行動や好みを強制することには反対です。そして必要ない男女分け、例えば名簿を男子から作るといったものはやめて正解だったと思います。けれど行動や好みに関しては男女に関わらず同じものを好む人が多いのか少ないのかという問題だと思います。多くの人が好むから好きというのも一つの選択です。自分の性を意識して同性が好むから選択することを刷り込みにつながることだと否定するのはやりすぎだと思います。逆に多くの人が好むから嫌いということもあるからです。環境による刷り込みを警戒しすぎると、この多数派か少数派かという情報すら問題視されてしまうと感じています。  また子どもたちにとって比べることはとても大事な判断材料です。同じものを見つけ仲間分けすることが子どもたちが知識を増やし考えていくための土台です。違いがわからないければ物事を理解していくことができないからです。  加えて共通項や条件によって枠組みは無限に発生するので、組み分けは確定的なものではないことを知っていくことが多様性を認めるということだと考えています。枠組みは自在に変化し、ある意味不確かだと知ることがおとなになるということだと思います。子どもたちは枠組みを作るところから始めています。子どもたちの作る枠組みは単純でおとなから見ると時に残酷だと感じるものもあります。違いを指摘することは本来相手を否定することではありませんが、条件によっては相手を傷つけるものもあります。  けれど傷つけることを恐れて違いに目を向けないようにしていては成長が望めないと思います。そして枠組みを変えていけば同じ子がことごとく傷つく立場になるわけではないと思います。学びの場では平等だとか唯一無二の存在だという言葉で枠自体をないことにしない方がいいと考えています。比べたり競いあったりすることは、子どもが自分のありようを模索し自覚するために必要なことだと考えるからです。傷ついたり痛みを感じたことからの回復に手助けができるおとなでありたいと思います。
2021年8月 · 2021/08/26
 学校図書館では表紙や挿絵の絵が自分の好みかどうかで子どもたちが本を選ぶ傾向があると聞きます。特に私が関わっている小学校2、3年生の女の子が「この本好きなの」と見せてくれる本はキラキラした可愛らしい絵がついたものが多いと感じています。誰が教えるわけでもないのに、目が大きくて目の中に星が飛んでいるような女の子の絵を一律に描く時期があり、同時に学校図書館で選ぶ本もそれらの絵がついた本が多く、その時期限定の好みを表している気がします。目の大きすぎる女の子の絵はある程度年齢を重ねると好ましいと感じなくなるようで形を変えていくからです。同様に挿絵で選ばれたであろう本は選んだ子どもの世代を感じさせ、おとなの目にはその本を読んでみようと思えるほど魅力的だとは思えません。  子どもが自分から手を出してくれることは読書を推進する上で非常に重要なことです。自発的に読むことは目標の一つであるからです。けれど自発的に読むことと自分から手を出すことは同義ではないと感じています。手を出してくれるように子どもの心を掴む絵をつけようというのは一見理に叶っているようで本の魅力を発揮させているとは言えないと感じています。読んでみて満足するかどうかはまた別だからです。  自発的に読むようになるためには、読んで満足することが大事です。手に取ることがゴールではないと考えています。欲しいのは読みやすかったしまあ面白かったという経験を積み重ねることではなく、何度も読みたくなるような虜にされる感じの出会いをどう積み重ねるかです。可もなく不可もなくのまあ面白かったという読書は図書館の時間が確保され本を借りることが義務になっている時には借り続ける原動力にはなりますが、自分で時間を作って借りるという形にはならない程度の自発性だと思います。加えて可愛らしい絵という点だけで選ぶ習慣をつけるとだんだんその絵が映える形の少女小説的なものしか興味が持てないということになりかねません。絵で選んだとしてもその内容から別の本に繋げることが大事なのだと思います。  そしてそれには細やかに子どもたちと関わる必要があり、学校司書ひとりが背負うには荷が重いとも感じています。ただ子どもたちが見せてくれた好きな本から、同じような内容で物語として満足できるものを紹介できるような選書能力と本の知識を持つ必要はあると感じています。先日も小学校3年生の女の子に可愛らしい星座と神話の本を見せてもらいましたが、物語的に満足できそうなものを紹介したかったのですが思いつくことができませんでした。こういったことを流さずにちゃんと探して、それを情報共有して行けたらいいなあと思います。一人ではできることに限りがありますが、仲間で活動したら道が拓けるのではないかと思っています。

2021年8月 · 2021/08/25
 『はろるどとむらさきのくれよん』クロケット・ジョンソン/作 文化出版局 は1955年にアメリカで出版され、日本では1972年に翻訳され出版されました。現在手に入るのは1972年版ではなく1986年版なのですが比較したことがないので違いを把握していません。けれどロングセラーであり守り続けることができた本です。...
2021年8月 · 2021/08/24
 『なんでも見える鏡』フィツォフスキ/再話 スズキ...

2021年8月 · 2021/08/23
 コロナ禍は私たちの暮らしや社会を映し出し客観的に見せていると感じています。そして当たり前と思っていたことが保証されているものではないことを痛感しています。また漠然と民主主義のルールを基盤に社会を作ってきているのだと思っていましたが農村を基盤とした社会に暮らしてきた私たちは村長的な人に従ってきたことが記憶に組み込まれているせいか、自分の意見を見極めるより絶対的な決定権を持つリーダーを求めてしまう部分を大なり小なり持っているようです。  顕著だったのはコロナ禍で決まっていたことをどうするのか改めて判断し直さなければならないことが増えたことです。オリンピックのような世界規模のものから各種イベント、小規模なものでは普段私たちが日常的に使う施設利用まで様々な場所で状況に合わせた判断が繰り返されています。これらの判断はウィルスから身を守り社会の安全を保つためという同じ目標があるにも関わらず判断は様々です。そして県をまたいだ移動は避けようとする中で、国をまたいだ移動は可能だったりすることが混乱に拍車をかけていると感じています。  ここまで混乱すると私たちの中に潜んでいる村長的なものを求める気持ちが出てくる感じがします。悪いのは力のないリーダーで、頼りになるリーダーさえいればこんなことにはならないはずだという理屈です。そしてこの複雑な社会でそんな人間離れした能力を持つリーダーなど存在できるはずがないことは、苦しさの中で見落とされていきます。農村を基盤として社会が作られていた頃は、人生観や価値観が村の中でほぼ統一されていて異端を嫌い同調圧力どころか同調が必須の社会だったので、リーダーの声は村の声として成り立ったのだと思います。けれど多様性が認められ様々な価値観が存在する社会では自分の思いを代弁してくれるリーダーを求めるのは無理です。そしてリーダーも鶴の一声的な役割ではなく、意見を集約しつつ総合的に判断する役割を担っているのだと思います。  苦しくなると強いリーダーを求めたくなりますが、まずは自分で考えることが大事なのだと思います。個人主義のフランスでは、ワクチン接種やPCR検査の証明書があればレストランの利用や遠出ができる等のルールを作っているのだそうです。個人主義のようでいて自分たちの暮らしを守ることの延長線上に集団のルールが発生していく形は民主的だと感じます。逆に日本は集団に迷惑をかけないために、人に非難されないためにと一見集団を守る視点になっているようでいて個人の我慢の上に集団のルールを作ろうとするのでルールが一人歩きするのだと思います。日本的な他人の目を気にするところは思いやりにもつながるので個人主義の方がいいと考えているわけではありませんが、リーダーを求める前に自分のために考えていく姿勢の延長線上に集団がありその集団のリーダーがあるという意識を持ってもいいと思いました。
2021年8月 · 2021/08/22
 感染者数が過去最多記録の更新を繰り返すという事態の中、夏休み期間が終わり学校が始まる時期を迎えました。学校長をはじめ教職員にいつも以上の責任が重くのしかかり、緊張されているのではないかと思います。私も週明けには「本はともだち」事業で学校に伺う予定になっていて、先生方との調整が始まっています。こんな時、変容を繰り返し全容が掴み切れていない新型のウィルスから身を守りつつ、どう自分たちの生活を滞りなく営んでいくかという難問に取り組んでいるのだと改めて思います。ウィルスから身を守るという一点だけで考えれば、無菌室のようなシェルターに全員で避難すればなんとかなりそうです。けれどそれでは生活していけませんしそんな施設を全員分用意することはできません。そこまで極端でないにしても安全を最優先にし休校という方法もありますがその際のデメリットは前回の休校で明らかになってきています。休校は子どもたちの社会性を著しく低下させますし、家庭は昼間は子どもたちがいないことを前提に営まれているので日中の子どもたちの居場所として即機能するものではないのです。よくいわれる学習の機会が奪われ勉強が遅れるということ以前の問題があることを私たちは経験しました。  そのため万が一学校で感染が起こったとしても、一斉休校ではなく学級閉鎖など最小限の封鎖で対応しようとしているのは前回の経験の現れだと感じています。できるだけ封鎖しない方向での工夫が始まっているのだと先生方のお話を伺っていて感じます。今までの経験から緊急避難的な対応だけでは乗り切れないことがわかってきたので、これからはこの現状の中で被る不利益をどう最小限に抑えていくのかが問われていると感じています。  そして子どもたちが自発的に自分で読書するプログラムとして始めた「本はともだち」は、子どもたちと対面で行い肉声で伝えることで最大限の効果を発揮するように作ってきました。しかしこの状況下にあってどう対応させていけばいいのか、緊急避難的な対応だけでなく根本的に考える必要が出てきました。それを考えることは絶対譲れないものは何かを確認する作業となるので慌てずに腰を据えて考えてみたいと思っています。

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