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どう変化しても

 物事がうまくいかない時、原因を特定し対策を立て改善をしていくことは活動していく上で合理的なやり方だと思います。これをよりシステム化した考え方に「PDCAサイクル」があります。元々製造業での品質管理における効果的な手法として提唱されたものです。PDCAとは、Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)の頭文字を取ったもので、継続的に品質を管理するための手法です。これが広まり、製造業だけでなく分野を問わずにいろいろな場面で活用されるようになっています。企業等で取り入れられている場合は目にすることがなかったPDCAサイクルですが国や行政の計画に盛り込まれるようになったため、私たちの目に触れる機会が増えてきたと感じています。このやり方は中長期計画を立てて仕事をする国や行政のやり方と相性がよく、以前取り上げた上田市の総合計画などでも目にします。

 この手法自体に問題はないと感じていますがPDCAサイクルで仕事をすることが日常的になってくると、この考え方が習性になり仕事以外でも無意識で使うようになる人が出てきています。特に評価と改善は、対人関係に応用されると非常に違和感を覚えます。相手に悪気がなくとも対等に扱われていないと感じますし、大袈裟に言えば個人の尊厳を脅かす感じがします。評価と改善はセットで1人の人が行うべき物ですが、人に応用すると評価する人と改善する人が別になるからではないかと思います。

 けれど学校においては評価が日常的に行われてきました。テスト等で学習の進捗状態を計ってきたからです。児童生徒の様々な側面に対して評価基準が用意され複合的に判断すべきものとして扱われてきました。そして学校での評価が全てではないと社会が許容することを前提に成り立ってきたのだと感じています。しかし社会が学校での評価を重視する方向に転換している今、主体性のある学びという形で学校が変化しようとしてきています。主体性のある学びは学ぶことを子ども自身が自分で計画し実行し評価し改善していくということです。まさしく学びをPDCAサイクルに則って行うことを求めているとも言えます。おとなと同じことを求められていることが子どもたちにとって良いことなのか、私にはわかりません。子どもの人権を尊重して対等に扱うということがおとなと同じことをするということなのか、そしておとなになったらやらなければならないことを先取りして習得しておくことに意義があるのかは意見が分かれるところだと感じています。読書という一点で子どもたちと関わっている私としては、どう変化しても読む力が必要で、言葉の習得が必須だということはいえると感じています。