· 

教育観

 子どもの本についての考え方を共有しようとすると、どうしても噛み合わないと感じることがあります。それは読書は個人のものでその捉え方が千差万別だからだと考えていました。けれど、もう一点、教育をどう捉えているかも同一のものではないからだと最近感じています。

 特に新しい指導要領で目立ってきたのが「主体的な学び」という考え方です。子どもが学ばされるのではなく、本人の意志で学びに取り組むというのは魅力的な姿ですし学びの本来の姿だと感じます。座っていられないのも、話を聞かないのもやりたいことをしていないからだというのは考え方としては正しいと思います。学校教育以前の乳幼児期において言葉を覚えていくことも歩くことができるようになっていくのも本人の意志がなくては成し遂げられないことだと思います。けれど意志を持つには強い動機が必要です。乳幼児の場合、保護者に自分の思いをわかってほしいとか自由に動きたいという、自分の生活を快適にするための動機があると思います。人間は保護されないと生きていけない状態で生まれるので本人の自覚がなくとも生きるために必死にならざるを得ないのだと感じます。

 では学校教育ではどうでしょう。文字を読めること、書けること、計算できること、社会の仕組みを知ることなど全て人間として生きていく上で必要不可欠なことです。新しい指導要領では子どもたち自身がこれらの必要性を自覚した上で学んでいくことを求めています。そのため教科書もなぜこの事柄を学ぶのかを提示しつつ、どう学ぶのかを選べるような作りになっています。けれどこういった学びが成り立つにはまず人は1人では生きていけないと強く感じていないと動機になりません。他者と生きるからこそ文字や数が必要で様々な価値観を尊重し合い、社会を形成していく必要を感じられるのだと思います。そして学校教育を受けた結果、社会の必要性を強く感じるものでもあると思います。

 必要性が分からなくとも学んだことで必要性が分かることもあると思います。人が育つ過程は様々な要素が複雑に絡み合い、一つの考え方で解決するものではないのだと改めて思います。子どもを取り巻くおとなは自分が何を狙ってどう関わっているのかを伝え合い、共有していくことが今以上に求められているのだと思います。