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責任の考え方

 何かに取り組んでいて、思ったように進まないと無意識に問題点をずらしてしまうことがあります。何をするにしても、自分1人で物事が進むことはないので、うまくいかない理由を自分以外の人や物のせいしたくなることはよくあることです。本当に解決を望むなら原因を見極めることは重要です。けれど私は今まで原因を解明することに対して懐疑的な立場でした。原因の解明という考え方は責任の所在を問う問題になりがちだと感じているからです。責任のありかを問うことで解決することもありますが、人が生きることに直結する問題は責任を問うことが難しいことが多く正解が人によって違う場合も多々あるからです。

 子どもの読書に関しても子どもたちの読書離れの理由を、社会は学校教育の問題とし学校は家庭教育の問題と指摘する傾向にありました。もしくは子どもたちを取り巻く物の変化、古くはテレビや漫画から始まり時代の変化と共にゲームや動画のせいにしてきました。どれも一因ではあるかもしれませんがそれらを排除したところで解決につながるものではないと考えています。極端な話、理想とする環境を整えられたとしてもその環境で育てば読書するのかといえばそうではないと思うからです。

 人は家庭という最小単位の群れで育ち、徐々に属する群れを大きくしながら育つ生き物です。全員が同じ環境で育たないということも人間として育つための一部だと感じています。人として育つ上で必要なもののひとつは群の一員として様々な人や価値観に出会うことができる環境なのだと思います。そうでなければ、20年近く保護者の庇護の元で過ごす育ち方にならなかったのではないかと考えています。

だとしたら、子どもたちが出会うおとなは等しく子どもの育つ環境の一部と言えます。育つ環境を問題にするなら子どもたちをどう指導するのかではなく、私たちがどう生きていて属する群である社会とどう関わるのかが問われるのだと思います。

 責任という言葉は非常に重く自分に責任がないことを確認することが生きていく上で大事なこととして社会は回ってきています。けれどこの考え方だけでは社会は回らないことに私たちは気づき始めているのだと感じています。「子どもの読書推進に関する法律」が制定された時、法律が定めたすべての人に子どもの読書推進に関わる責任があるという考え方は責任の所在を曖昧にし、やってもやらなくてもいい感じがすると思いました。今考えるとこれも社会の一員としての責任を問うているのだと思います。責任という考え方には奥行きがあるのだと思うようになりました。