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手法ではないかもしれない

 私は話す方が得意で書くことは苦手だと思ってきましたが、話すことも書くことも自分の考えていることを頭の中から外へ出すという点で同じ作業なのだと思います。そして外へ出すスイッチを入れるのは共有したい相手の存在だと感じています。こうやって毎日書くようになって伝えることが日常になると、講座などの話したいと思うことが減る感じがしています。ただ伝える相手が違うので、聞いてくれる相手を前にするとスイッチが入り話すことが困難になったという感じはしていません。求められることで伝えたいことが鮮明になるからだと考えています。

 学校教育を受ける世代でもおとなでも話し方や書き方を学ぶことは伝えたいことがないと効率が悪く、どんなに優れた手法でも効果が期待できないのではないかと考えています。この感覚はパソコンの操作に似ていると思います。パソコン教室でエクセルなどの操作方法を学んでもエクセルでやりたい事がないと通り一遍の操作方法が身につくだけで使いこなせるようにならないのと一緒です。

 また聞くこと、読むことに関しても同様の事が言えると思います。相手の考えを知りたい、わかりたいという思いがないと、聞き方や読み方の手法は効果を発揮しないと思います。子どもはその本をおもしろそうと思えるからこそ手に取るというのは、この知りたい、わかりたいという気持ちが根底にあるのだと考えています。

 このわかりたいという気持ちは、相手がいるからこそ生まれるものです。私たちは他者と関わらずに生活が成り立ちません。「話す」「聞く」「読む」「書く」という力は他者とやり取りする中で磨かれ精度が上がるのだと思います。「話す」「聞く」「読む」「書く」がうまくいかない場合、習熟を目指して学び方を工夫するだけでなく、言葉を使ってみる場も必要なのだと思います。わかり合うためには細かいニュアンスまで伝えられるように言葉の精度を上げていかざるを得ません。加えて子どもたち自身が群れの一員だということを自覚しその中でわかり合おうとする姿勢が必要です。もしかしたら私たちがまず考えなければならないことは、子どもたちが群れの一員だと思え、安心して過ごせる環境についてなのかもしれません。