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リーダーを求める前に

 コロナ禍は私たちの暮らしや社会を映し出し客観的に見せていると感じています。そして当たり前と思っていたことが保証されているものではないことを痛感しています。また漠然と民主主義のルールを基盤に社会を作ってきているのだと思っていましたが農村を基盤とした社会に暮らしてきた私たちは村長的な人に従ってきたことが記憶に組み込まれているせいか、自分の意見を見極めるより絶対的な決定権を持つリーダーを求めてしまう部分を大なり小なり持っているようです。

 顕著だったのはコロナ禍で決まっていたことをどうするのか改めて判断し直さなければならないことが増えたことです。オリンピックのような世界規模のものから各種イベント、小規模なものでは普段私たちが日常的に使う施設利用まで様々な場所で状況に合わせた判断が繰り返されています。これらの判断はウィルスから身を守り社会の安全を保つためという同じ目標があるにも関わらず判断は様々です。そして県をまたいだ移動は避けようとする中で、国をまたいだ移動は可能だったりすることが混乱に拍車をかけていると感じています。

 ここまで混乱すると私たちの中に潜んでいる村長的なものを求める気持ちが出てくる感じがします。悪いのは力のないリーダーで、頼りになるリーダーさえいればこんなことにはならないはずだという理屈です。そしてこの複雑な社会でそんな人間離れした能力を持つリーダーなど存在できるはずがないことは、苦しさの中で見落とされていきます。農村を基盤として社会が作られていた頃は、人生観や価値観が村の中でほぼ統一されていて異端を嫌い同調圧力どころか同調が必須の社会だったので、リーダーの声は村の声として成り立ったのだと思います。けれど多様性が認められ様々な価値観が存在する社会では自分の思いを代弁してくれるリーダーを求めるのは無理です。そしてリーダーも鶴の一声的な役割ではなく、意見を集約しつつ総合的に判断する役割を担っているのだと思います。

 苦しくなると強いリーダーを求めたくなりますが、まずは自分で考えることが大事なのだと思います。個人主義のフランスでは、ワクチン接種やPCR検査の証明書があればレストランの利用や遠出ができる等のルールを作っているのだそうです。個人主義のようでいて自分たちの暮らしを守ることの延長線上に集団のルールが発生していく形は民主的だと感じます。逆に日本は集団に迷惑をかけないために、人に非難されないためにと一見集団を守る視点になっているようでいて個人の我慢の上に集団のルールを作ろうとするのでルールが一人歩きするのだと思います。日本的な他人の目を気にするところは思いやりにもつながるので個人主義の方がいいと考えているわけではありませんが、リーダーを求める前に自分のために考えていく姿勢の延長線上に集団がありその集団のリーダーがあるという意識を持ってもいいと思いました。