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考え方の方向

 同じような目的で同じようなことをしようとしていても、どうにも話が合わないことがあります。そのためそれぞれの活動を同一のものとして連絡協議会など作って将来の展望を考えようとした時に話し合いが難航することが間々あります。そもそも似たような活動をしているということは、そういったことに興味のない人たちを集めるよりは実りが多い筈なのになぜそんなことが起こるのかいつも疑問に思ってきました。例えば図書館をどうするのかという話し合いの場を行政が会議を招集したり、市民が考える会を作ったりして話し合いの場は作られてきましたし、私もそういった場に参加してきました。けれど話し合って決めることは難しいということを再確認するばかりでした。

 話し合いが成立するためには、基本的な情報共有が必要だと感じています。公共図書館のあるべき姿といった時に、公共図書館がどういうものかという点でまず噛み合わないのです。100人いたら100人が図書館の解釈が違うため図書館に求めるものを整理し意見をまとめること自体が難しいのだと思います。図書館が何をやっていてどう運営されているのかの情報共有がないまま話し合うことで話が噛みあわずに、結果多種多様なニーズに応えるというような曖昧な言葉に落とし込まれ、わかったようなわからないようなことになります。

 もうひとつは、学識経験者とか専門家といわれる人たちの意見を答えだと思ってしまうことが混乱に拍車をかけると感じています。専門家の意見は方向性が特化されているのでそのまま応用できないことも多いと思います。どうしても机上の空論的な部分がありますし、意見を組み立てる前提としている条件付けが社会生活とかけ離れている場合もあります。専門家の意見は社会をどうすべきかということのヒントであり、同時に専門家も答えとして扱って欲しいとは考えていないのだと思います。

 結局、社会生活の中での問題の位置付けがきちんとしていなければ、知恵を出し合うことも難しいのだと感じています。社会生活を営む上で資源も時間も有限です。有限のものをどう使うのかということなのでどうしても諦めるものが出てきます。何をするかではなく、何を諦めるのかの視点がすっぽり抜けていることが話し合いが成り立たない理由かもしれないと考えています。