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好きのあり様

 好きなことや好きなものはいつの間にか好きになっていて、きっかけや動機がはっきりしないことが多いのではないかと思います。子どもの好きは浮かんでは消える泡のようで気まぐれにその姿を変えつつふんわりと抱えているうちにどうしても手放せない確固たる好きが育っていくのだと思います。そして私の子ども時代は友だちと戯れに好きな食べ物とか、たわいもないことを伝えあって好きはさほど深刻に考えることではなかったと思います。イメージとしては、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の「my favorite things 私のお気に入り」のような軽やかで楽しい言葉遊びに近いものだったと思い返しています。

 けれど最近小学生と話していると、この好きが深刻なテーマになっている印象を受けます。私は〇〇が好きだから〇〇をするといった行動の動機として好きという気持ちが使われるからではないかと想像しています。先日も学校図書館で2年生の女の子が私は犬が好きだから犬の図鑑を借りていると言ってその本を見せてくれました。話を聞いているとその子はどうもカタログのように様々な犬の写真を見ることが楽しいようでした。偶然その本は犬種だけでなく猫種も取り上げていたので犬類が300を超えているのに対して猫種は40弱と少ないから犬の方が優れていると嬉しそうに話してくれました。そこで犬が使役のために交配されてきたと種類が多い理由を説明してみたら犬を働かせるなんておかしい、犬は可愛がるものだという答えでした。図鑑を読んでいるなら予想がつきそうなことを否定しているところを見ると解説を読みたくなるような動機はないのに犬が好きだから犬の本を借りているということに満足している感じで残念な気持ちになりました。どの本を読もうかなという選択はもっと気まぐれでいいものだと思うのです。好きは自分を豊かにしますが使いようによっては自分を縛ってしまうこともあるようです。子どもたちを自由にするつもりで好きなものという言い方をすると思わぬ方向に進む例を見た気がしました。