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極端にならない

 私は読み聞かせをしているので絵本といえば絵と文章を同時に楽しむものと考えています。けれど絵本の作り手によってはそれを前提にして絵本を作っていない人もいます。それでも読み聞かせでこそ楽しめる作品は存在します。また読んでもらったことがあっても自分で読書することでしか受け取れないものもあると思います。そして読み聞かせで渡す絵本と自分で読むために渡す絵本の境界線は曖昧な上、同一の読み手でも状況によって変化したりするので、この違いを意識されることが少ないと感じています。

 けれど読み聞かせか自分で読むかという究極の選択のような議論が多すぎるのではないかと思うのです。読めないのだから読んであげた方がいいという考え方も自分で読むことが大事だから読めるような本を渡した方がいいという考え方もどちらもある意味正解で時と場合によるのだと思います。それなのにその選択の一部分だけ取り上げすぎだと感じています。例えば読み聞かせることで読書につながったというような効果が出た部分だけ語られますが、効果を感じさせるにはどれほどの時間を費やしたのかはあまり語られません。例えば学校で読み聞かせを行うことで読書につながる手応えを感じようとしたら最低でも毎日必ず読み聞かせを取り入れることが大前提だと思います。図書の時間やボランティアが入ることは読み聞かせの環境を支える助けにはなってもそれだけでは足りないと思います。だからといって読み聞かせをすることが無駄だというのもまた極端なのだと思います。また自分で読むということに焦点を当てすぎて、読書力が足りないから読めないのであって内容よりもその子の読む力にあった本を手渡すのが大事というのも極端だと思います。らくらく読めるから楽しめるかと言えばそういうものでもないですし、読める本のジャンルが極端に偏ったり気に入った本しか読めないというのも読めるようになったということにはならないからです。

 大事なのは問題の整理をすることだと思います。子どもたちが自分で読めるようになるというのは子ども読書推進で欠かせない視点です。そして読めるようになる道筋は一つではないことをまず意識する必要があります。そして複合的にサポートすることが大事だと思います。読書を考える時にはこれさえやっておけば大丈夫といったすっきりした解決策などなく、成果は見えにくいけれどもそれぞれがそれぞれの立場でコツコツと積み重ねることが重要だということを意識し続けることが重要だと思います。