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自分で読むということ

 『花さき山』斎藤 隆介/文  滝平 二郎/絵 岩崎書店 について、学校図書館司書の方と話をする機会がありました。この物語の内容は胸を打つもので、滝平さんの切り絵と相まって非常に美しい絵本です。私自身小学生の頃この本を母にプレゼントされ自分で読んで夢中になり、自分も花さき山に花を咲かせるぞと決意し普段弟に譲る行為が報われたように思ったことがあります。けれどこれは自分で読んだためにそう考えたのだとおとなになってから思い返しています。もしこの物語を母の読み聞かせで受け取っていたらこれほど心に刻まれなかったような気がします。私には弟がいて、あやと同じように姉という立場でした。そしてお姉ちゃんだから弟に譲るようにといつも言われていました。ですからその調子で母が読み聞かせをしてくれたら、物語を受け取る際にきっと反発していただろうと思うのです。けれど自分で読んだためにそういった周りの思惑とは無縁のまま純粋に物語として受け取りました。小学生の自分は意外と純心だったのでしょう。物語はすんなりと心に刻まれ自分の行動に反映したくなったのです。物語を物語のまま渡した方がいいと私が考える理由はここにあります。

 そして学校図書館司書の方の体験がこれを裏付けるような内容でした。その方は小学校2年生の時に担任の先生が『花さき山』を教材として取り上げ、懇切丁寧に解説してくれたのだそうです。そして最初はいい話だと思った『花さき山』が、解説されるにつれてだんだん嫌になっていったというのです。その当時は何が嫌だったのか言葉で説明することはできなかったけれど、今思えば思いやりの心を強制されているような感じが嫌だったのではないかという話でした。それを聞いて物語を教材にする難しさを感じました。担任の先生も決して悪気があった訳ではなく子どもたちに思いやりの心を持ってもらいたいというお考えだったのでしょうし、花が咲くという視覚に訴える作りなので思いやりの行動が取れたら花を貼ろうといった応用が利いて教材としても使いやすかったのだと想像しています。けれど物語を読んだ人が皆同じ思いになるとは限りません。『花さき山』を読解するとき、思いやりの心で咲く花に焦点を当てすぎて思いやりの心が尊いということを強調するとせっかくの物語がただの教訓になってしまいます。そして物語の中に含まれているものは自分の心だけで作用し完結するのだと思います。自分のことを思い返しても花さき山に花を咲かせているという思いは誰にも言いませんでしたし、言う必要がなかったからこそ生まれた思いのような気がしています。心の奥深くに入り込み他の人の影響も受けないところでしか育まれないものというのを物語は内包しているのではないかと思います。