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読書推進というけれど

 読書推進を考える時どうしても読書をしてどうなったのかという結果が見たいという方向に行くことがあります。特に今の行政の仕組みでは計画をたて、その結果を評価分析し、次の計画に反映させることが必須だということも影響していると思います。貸し出し冊数や来館者数といった数で判断されることが多いのもそのためだと思います。また学校だと身についたことに注目しそれが読書の結果だと解釈されることもあります。仕事である以上現場にいるからこそ感じるものがありますがそういった感覚的なものだけを裏付けにしてその先の計画の方向性を決められないことは分かっています。けれど目に見える結果を求めすぎるとよく言われる読解力や語彙力だけでなく想像力や思考力といった本を読むことによって身につけて欲しいと期待されている力を育めない危険があるのも読書だと考えています。

 子どもたちはおとなの思惑に敏感です。そして年齢が低いほどその思惑に応えようとします。例えば読書冊数で子どもたちの読書意欲を高めようとすると読書冊数に注目するようになります。そしていかに冊数を伸ばそうかと子どもなりに苦心し一日に何回も図書館に足を運び借り直したりします。これは子どもの問題ではなく冊数に注目させたおとなの問題だと思います。おとなのように複数の目的を組み合わせることは子どもにとってハードルが高いからです。そして複数の目的に優先順位をつけて自分の目指す方向を定めていくといったさじ加減ができるようになることがおとなになるということだと思います。ですから子どもたちがこちらの思惑とは違う思わぬ方向に走ったとしても不思議はないのです。むしろこうきたかと子どもたちを理解するチャンスだと思います。

 私が子どもが読書することに立ち会ってきて思うのは、どんな相手とも本はおもしろいという点で共感しあえるということです。年齢や読む力が違うことは問題にならず、子ども同士でも、子どもとおとなでも共感する相手を選ぶことはないと感じています。そして読んでおもしろかったという体験の積み重ねの上にしか読書推進は成り立たないのです。本から何を吸収するかは自在に読めるようになったその後の方が比重が高くなります。そして読めないなら本の内容だけ取りまとめて伝えればいいと考えるのは本の力を著しく削ぐ行為だと思います。本は読み手の内面に合わせてちょうどいいタイミングでちょうどいいだけのものを渡してくれるように作られています。ですから自分が読み取ったものを伝えるのは親子間もしくは、お互いがそれをしたいと思った時にだけ成り立つ行為だと考えています。そのため本の内容を伝えると言うより相手の考え方を知る行為だといえるので対等な関係でなければ成立しないと思います。

 子ども読書推進の目指すところは結局読書のおもしろさを知ることなのだと思います。小学生なら食わず嫌いならぬ読まず嫌いを克服することなのだと考えています。そして推進しようとする側は読書のおもしろさを知っている必要があります。そのために自分の生活の中にも読書の時間を確保することが第一歩かもしれません。