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理詰めでいけないもどかしさ

 本を選ぶということは、とても感覚的なものです。また選んだ理由なども理由が先にあったのか後から理由をつけたのか、実のところ曖昧なのではないかと感じています。これは年齢や経験に関係なくおとなも子どもも一緒だと思います。この理屈ではない部分というのは、本が画一的なものではなく様々な時代に生きていた様々な立場の様々な考え方を様々な手法で書き記したものであり、読み手も唯一無二のひとりだということが影響していると考えています。

 こう考えていくとそもそも選書することを諦めた方がいいのかもしれないと思う方がいらっしゃるかもしれません。それでも選書は図書館を図書館たらしめていると考えています。選ぶことはその図書館がどうありたいか、ひいてはその図書館の利用者となる人たちがどう図書館と付き合っていくのかという答えになるからです。司書は学校教育で明確な答えがあることに慣れたまま、ある意味正解がない選書をすることと向き合っています。選書基準といった選書する理由だけでは本は選びきれないこともまた事実だと感じています。

 けれど言葉で表そうとするとこぼれ落ちてしまうような感覚的なものでも、研ぎ澄ませていくと本物を見分けることができるようになると感じています。私は子どもの本に関して時代が評価を通すことが本物を見分ける基準だと考えてきました。そして自分が子ども時代に読んだ本で今も子どもたちが楽しむ本は時代が評価を通した本だという幸運な巡り合わせになる形で子どもの本と向き合ってきました。また新しく出版される子どもの本も読み続けてきたため時代が評価を通していく現場を見ることができました。それは出版された時はとても楽しかったのに古びて楽しさを失っていく本がある一方時間が経っても楽しいまま変わらない本として息づいていくことものがあることを肌で感じていくことでした。時代に評価されていく過程に立ち会う前は、自分が子ども時代に読んだ本は自分の中でおもしろかったという思いが強く今の子どもたちに自分の思いの押しつけになっているのではないかと心配になったこともあります。けれど古びないものは確かにありました。

 ですから選書をすることに打ちのめされないで子どもの本を読み続けることはとても重要だと感じています。多分この本は時代を超えるであろうということはどのみち明文化できるものではありません。そしてその判断が必ず当たるとは限らないものです。それでもその視点を持っていることが見分ける目を育てると自分を振り返って思います。加えてその時代の空気をたっぷりまとって今だから楽しい本というものを否定している訳ではありません。今が旬の本という形できちんと選べていることが大事だと思います。