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言葉の習得に付き合っている

 昨日友人と話をする中でなんの気なしに子どもの言葉の習得の過程が最近気になっていることを話題にしました。その友人は特に子どもに関わっている訳ではないのですが、整体の先生で心と体を切り離して捉えずに体と心を丸ごと捉える視点があるので考えに行き詰まっていると話したくなる人です。

 社会のあり方が変わってきて子どもたちが家庭にいる時間が減り、一対一でおとなが関わることが減ってきているために言葉を自分のものとして体得することが難しくなっているのではないかという私の考えに対して、友人は意味を知らずに言葉を使うこと、言葉の選択がその場に相応しくないことなどは言葉の習得過程として自然なことのような気がするという意見でした。もちろん家庭で一対一で身につけるものもあるけれど、言葉を使ってその場にふさわしいか確認しながら修正して習得していくという点では学校などでの発言も含まれるのではないかという意見を聞いて、自分の視野が狭くなっていることに気がつきました。私が私の基準で子どもたちに年相応の発言を期待していることだとも言えると思ったからです。

 子どもたちが読む力をつけるために身につけていって欲しいことは多々ありますが、習得過程にあるという視点がいつの間にかこぼれ落ちていました。確かに集団の中で発言することで言葉の使い方を試すことも言葉の意味を知る機会です。ただ集団で試されると話が脱線してうまく伝わらなくなることもあるので伝えている側にとってありがたくないだけです。自分のことを思い返してみても学校に属していることで言葉の精度が徐々に上がっていったはずでした。そしてショッキングな言葉を使って周りの反応を見る子は私の子ども時代にもいたことを思い出しました。本人が言葉の意味をよくわかった上でわざと使う場合もないとは言えませんが知らずに使う場合があるのは今の子どもたちに限ったことではありません。私が出会っているのは小学校低学年の子どもたちなので言葉の意味を確かめていると考えた方が自然です。また確かめた言葉が相応しくないことは集団に属していたら多かれ少なかれ感じ取れます。子どもたちの言葉の習得に付き合っているという視点を忘れないようにしたいと思いました。