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集団と共に

 本はともだちをしていると、微動だにしない感じだった子どもたちが突然動き出したような気がすることがあります。例えば紹介した本で好きだった本を聞いた際、その本が好きだった人に「実はこの本には続きがあるんだけれど図書館で探した人いる?」といった言葉がけをします。1回目はふうんといった感じなのですが、2回目以降、「見た」とか「見つけた」という声が上がるようになってきます。そこでもう一押し「読んだ人いる?」と声をかけるようにします。子どもたちの反応によっては「見つけるより読んだ方がおもしろいよ」という形で伝えることもあります。そして誰が手をあげるのかということはおとなが思うより子どもたちはよく見ています。手をあげる事が刺激になって本を探そうという気運がクラスに満ちてきたら子どもたちは自発的に動き出します。ですから側から見ていると受け身だった子どもたちが突然動き出したような錯覚に陥りますが、これは子どもたちにとっては突然ではないのだろうと思います。ちゃんと伝わっていれば、あとは待っていることも大事なのだとこんな時思います。

 子どもの変化のスピードはおとながコントロールしきれない物だと思います。驚くほど早いこともあれば待っているのが嫌になるほど遅いこともあるからです。まして集団だと子どもたちの組み合わせによってどんな影響を受け合い何が起こるのかを予想するのが余計難しくなります。けれど影響しあって着実に変化していく柔軟性が子どもたちには備わっています。個人で身につけるより集団で身につける方が周りを巻き込んだダイナミックな変化になり、子どもたちの成長の幅が大きくなると感じています。大袈裟にいえば人間は群れで生活する事が遺伝子レベルで組み込まれているのだなあと思います。

 ただ集団を活かし手をあげることを効果的に使うには多数派に属したいという人間の本能のようなものが強く出ないような配慮は必要です。「好きな本に手をあげて」と言った時にたくさん手が上がる本はどれだろうという観察をする子が出てきます。そしてたくさん手が上がった本にあげようとする子がいます。また自分が好きでない本の時に否定的なことを言って他の子の手をあげにくくさせたりする事があります。そのため読書の場合多数派に属する事がいいことではないというメッセージを直接的な言葉ではなく伝え続けています。具体的には手をあげる子が少ない本に対して「この本私も好き」とか内容を取り上げて「このシーンよかったよね」と手を上げた子と共感し合うようにしています。自分で読んで確かめて自分が好きな本で本はともだちの紹介本を決めているのは紹介したどの本が好きと言われても共感でき集団を味方につけるための方法なのだと改めて思います。